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検索の結果 2件の記事が見つかりました


水田天満宮(筑後市水田)【名所旧跡・筑後地区南部】
筑後市にある水田天満宮は鎌倉時代に菅原道真公を祀り創建された神社になります。幕末の志士・清川八郎は「九州第二天満宮なり」と自著に記述していることが水田天満宮のページに記載されています。 この地は、筑後の志士・真木和泉が10年ほど蟄居したところで、現在も神社の南西100mほどのところに山.....

水天宮(久留米市京町)【名所旧跡・久留米】
水天宮の起源は高倉平中宮(徳子-平清盛の娘-)に仕えた按察使局(あぜちのつぼね)伊勢が「壇ノ浦の戦い」後、筑後川の辺の鷺野ヶ原(さぎのがはら)に逃れて安徳天皇、高倉平中宮、二位の尼(時子-平清盛の妻-)を祀ったものといわれています。 鷺野ヶ原で伊勢は、剃髪し千代と改め、加持祈祷などを行い里人に.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

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はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

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2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
蝸牛(かぎゅう)の角上(かくじょう)に何事をか争う
-かたつむりの角の上のような小さな場所で、何を戦う意味があるのだろう-
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 【「漢委奴国王」印は本物?】(1784年)-なぬ~金印には贋物説があった?-

金印イメージ図
江戸時代に志賀島から発見された「漢委奴国王」印には、意外にも当時より贋物説があったという事です。1700年を経て無傷で発見された奇跡に、疑問の声を上げる人々があっても仕方のない事なのかもしれません。

当時、福岡藩では「修猷(しゅうゆう)館」と「甘棠(かんとう)館」の二つの藩校を立ち上げる時期にあたり、金印を鑑定した亀井南冥が、館長を務める甘棠館の名声を少しでも高めるために「金印発見」を仕組んだのではないかといった疑問を持つ者が現れ、贋物説が真しやかに広まります。そして、この贋物説は最近まで討論され続けています。

贋物説を主張する側の一つの理由としては蛇鈕(じゃちゅう・蛇の形が刻まれた把手部)が中国で発見されている他の金印の中に見当たらないといった事がありましたが、1956年に中国雲南省の墳墓で蛇鈕・「滇王之印(てんおうのいん)」が発見され、この疑問に関しては一応の解決をみます。
また「漢委奴国王」印の印面の一辺が2.3㎝強でこれが後漢初期の一寸であることが指摘され、これも「漢委奴国王」印が本物である根拠とされています。
そして1981年には江蘇省より「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」が発見されます。この印は西暦58年に光武帝の第九子・劉荊が廣陵王に封じられた際に受領した王印とされます。把手は蛇鈕ではなく亀鈕でしたが、「漢委奴国王」印と同一工房で作成されたのではないかとの説が出されるほど多くの類似点が指摘されています。
光武帝より奴国王に金印が送られたのが西暦57年の事ですので、「廣陵王璽」と「漢委奴国王」印が同じ技術で制作されたとなると、光武帝より送られた金印が「漢委奴国王」印である可能性が非常に高くなるのです。

これらの発見で、現在では「漢委奴国王」印は光武帝から送られた本物にまず間違いないのでは、という判断が主流となっています。しかし贋物説はいまだにくすぶり続けているのが現状の様です。
亀井南冥自身は贋物説に対して何も語らなかったようですが、作為的なものが無かったとした場合、南冥の憤慨はいかばかりだったかと同情せずにはいられません。

-参考 「『漢委奴国王』金印誕生時空論」(鈴木勉氏/雄山閣)-


福岡市博物館のページには鈕(ちゅう)ついて次のような説明がなされています。「漢帝国内の皇太子や高官などには亀の鈕の印が与えられますが、匈奴(きょうど)などの北方諸民族の王には駱駝や羊の鈕、蛇の鈕の印は南方の民族に与えられました。日本列島は南方の国と考えられていたようです。」(原文のまま)









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スポットライト人物伝


【篠原泰之進(しのはらたいのしん)】
(1828年~1911年)


筑後浮羽の出身で関東で攘夷活動に走ります。その後、伊東甲子太郎に従い京都にて新選組に加入しますが、2年と数ヶ月後には伊東ら同士と共に御陵衛士(ごりょうえじ)を創設し新選組より離脱します。新選組はこの行動を表向きには了承しますが、脱隊を原則違反とする新選組の近藤勇、土方歳三らは伊東甲子太郎を謀殺、遺体を引き取りに来た御陵衛士を待ち伏せし3名を斬殺します。多勢に無勢で篠原ら数名はその場から逃走し薩摩藩.....[全文を表示]



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