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福岡史伝・江戸 【寛政異学の禁】(1790年) この頃、福岡藩では貝原益軒系統の朱子学を学んだ竹田定良が館長を務める修猷館と前身を私塾とし徂徠学派・亀井南冥が館長に就く甘棠館の二つの藩校があり、学閥間でしのぎを削る状況でした。しかし、この「寛政異学の禁」で甘棠館館長の南冥はその座を追われ(1792年)、主導権は修猷館が握ることとなり、その6年後には火災で校舎を失った甘棠館は廃校となり生徒は修猷館へ編入されます。館長だった亀井昭陽(南冥の長男)は解任され一般藩士として狼煙台の警備の仕事に就いたと言われます。しかし、その後に昭陽は私塾「亀井塾」を開き多くの人材を育てます。幕末維新期には亀井学派から国事に奔走した気骨のある人物が輩出し、甘棠館時代からの広瀬淡窓は日田に戻り私塾「咸宜園(かんぎえん)」を興し後の著名な学者や技術者を育ています。 ところで儒学の正統派とされる朱子学の修猷館に対し、亀井南冥の徂徠学派(古学)とは、「儒学を学ぶためには体系化された参考書は不要で四書五経などの原典を直接読めばよいではないか」といった考え方が基本となっています。古学というと文字からして非常に頑固で取っ付き難そうなイメージを受けるのですが、実は「原点を知り、自分なりの発想をしよう」という考え方の様です。 関連記事:寛政異学の禁 |
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意外な人物伝 【筑前にも超能力者がいた?】(文明年間)-筑前に存在した幻術師・火亂- 「三国志演義」には于吉(うきつ)、華佗(かだ)、左慈(さじ)などの特殊な能力を持った人物が登場しますが、日本の戦国時代にも果心居士(かしんこじ)という不思議な能力を持った人物が現れ、信長や秀吉、家康といった時の人を翻弄したといわれています。この果心居士が実在の人物かどうかは読者の判断にお任せするしかないのですが、一説によるとこの人物は筑後の出身とする話があるようです。ところで博物学者の貝原益軒はこのような話にも興味があった様で「応仁の乱」が長引く文明(1469~1487)の時代、筑前別所村に火亂(からん)という山伏がいたことを「筑前国続風土記」で伝えています。 火亂は剣術の達人であり幻法(幻術)も身に着け、天性凶悪な性格で怪しげな行為を行ったため、所司(警察の長)はこれを討とうしますが、火亂はこの事を事前に察知し捕らえることができませんでした。そこで所司は火亂の弟子の式部という人物を招き火亂を討つよう依頼します。この対決では式部が火亂の右腕を打ち落としたことで勝負は決し、火亂は怒って「公命とはいえ、師を討つ罪は逃るべからず」と叫んだ後に討ち取られます。しかし その後、式部の親兄弟が様々な災いで亡くなったために式部は祟りを恐れ火亂の社を建立し祀りました。 貝原益軒はこの様に「火亂社」の謂(いわ)れを綴っています。 |
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