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平家最後の拠点・彦島(2020.6.9)【余談】
九州を追われた平家は1183年11月「水島の戦い」で源義仲を破るものの、翌年2月 源義経に「一ノ谷の戦い」で敗れ、その1年後には「屋島の戦い」で再び敗れ四国を追われます。 「屋島の戦い」の数日前には源範頼が九州芦屋に上陸していたため、行き場をなくした平家一門は長門彦島に逃れますが、まもなく「壇ノ浦.....

山鹿秀遠(?~1185年?)【福岡人物伝】
豊前国との境、筑前国山鹿の豪族です。治承・寿永の乱では平家方に属し、大宰府を追われた安徳天皇と平家一門に最後まで付き従います。壇の浦では平家の主力として戦いますが、平家一門と運命を共にしたものと思われ、以後は歴史に登場することはないようです。ところで山鹿いえば熊本の山鹿市が有名ですが、山鹿氏は菊池氏.....

芦屋から壇ノ浦へ(1183年~1185年)【福岡史伝・平安】
芦屋町山鹿の城山。手前は遠賀川河口 豊後の緒方氏の兵に大宰府を追われた平家一門は博多の東の箱崎を抜け、そこから東の海岸沿いに遠賀川河口の山鹿へ向かいます。 山鹿といえば熊本県山鹿市が有名なのですが、福岡県遠賀郡の芦屋町にも山鹿という土地があり平家物語に出てくる山鹿はこちらにな.....

筑後竹野の戦い(1183年)【福岡史伝・平安】
木曽義仲に都を追われた平家一門は大宰府に入りますが、都府楼は鎮西反乱で焼け落ちていたため安徳天皇は原田種直の屋敷に入ったといわれます。そのためすべての平家の人々が屋敷に入り切れず、末端の人々は野宿同然の生活を強いられたようです。 そんな状況の中、後白河法皇の院宣を受けた豊後の緒方惟義は平家追討の動.....

原田種直(?~?)【福岡人物伝】
都落ちした安徳天皇と平家一門を筑紫に迎え入れますが、豊後の兵が攻め寄せて来たため平家一門は着の身着のまま北に向かいます。種直はその後を追い、遠賀川河口の山鹿まで護衛しています。 この約1年後には源範頼が九州上陸を開始し芦屋海岸に攻め寄せたため、これを阻止するため交戦しますが敗れ源氏の軍の上陸を許し.....

水天宮(久留米市京町)【名所旧跡・久留米】
水天宮の起源は高倉平中宮(徳子-平清盛の娘-)に仕えた按察使局(あぜちのつぼね)伊勢が「壇ノ浦の戦い」後、筑後川の辺の鷺野ヶ原(さぎのがはら)に逃れて安徳天皇、高倉平中宮、二位の尼(時子-平清盛の妻-)を祀ったものといわれています。 鷺野ヶ原で伊勢は、剃髪し千代と改め、加持祈祷などを行い里人に.....

安徳天皇(1180年~1185年)【福岡人物伝】
木曽義仲が京都に攻め上ると、安徳天皇は平家一門に守られ筑紫大宰府へ逃げ落ちます。 しかし、大宰府も安住の地ではなく緒方氏に攻められ四国屋島へ逃れます。 その後、「一の谷の戦い」、「屋島の戦い」と源義経の軍に破れ、ついに1185年4月「壇ノ浦の戦い」で平家軍が壊滅すると、 僅かに五歳の安徳天皇は二位の.....

按察使局伊勢(?~?)【福岡人物伝】
「壇ノ浦の戦い」で平家が敗れると安徳天皇を抱いて入水したといわれる女性で、鎌倉軍の兵士に引き上げられます。 時期は不明ですが伊勢はその後、九州筑後へ移り、筑後川の辺(ほとり)に社を建て安徳天皇、高倉平中宮(平徳子、清盛の娘)、二位の尼(時子、清盛の妻)を祀ります。 そしてこの社で加持祈祷を行い村人よ.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
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名所旧跡・北九州地区
 【宮本武蔵の碑】-北九州市小倉北区赤坂-





宮本武蔵の碑

宮本武蔵の碑

この碑は宮本武蔵の養子・伊織が建立したものである。伊織が播州(兵庫県)明石の藩主であった小笠原忠真に仕えたのは、寛永三年(一六二六)十五歳の時で、同九年小笠原氏が小倉に入国したときには、若くして知行二千五百石の家老であった。
武蔵は数年間小倉に在住したと伝えられているが、寛永十七年には熊本に移り、正保二年(一六四五)五月十九日に没した。
碑は伊織が、忠真から拝領した手向山に、養父・武蔵をしのんで承応三年(一六五四)四月十九日に建てたもので、古くから北九州地方第一の名碑とうたわれている。剣豪の生涯の事跡を伝える碑文は、武蔵と交遊のあった熊本・泰勝寺の春山和尚が記したものである。

北九州市教育委員会



小倉碑文内容

天仰 実相 円満 兵法 逝去 不絶
碑文(文中の異字・異体字等は常用漢字に改めた)
兵法天下無双

于時承応三甲後年四月十九日孝子敬建焉
正保二乙酉暦五月十九日於肥後国熊本卒
播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士碑
臨機応変者良将之達也講武習兵者軍旅之用事也遊心於文武之門舞手於兵術之場而逞名誉人者其誰也播州之英産赤松末葉新免之後裔武蔵玄信号二天想夫天資曠達不拘細行蓋斯其人乎為二刀兵法之元祖也父新免号無二為十手之家武蔵受家業朝鑚暮研思惟考索灼知十手之利倍于一刀甚以夥矣雖然十手非常用之器一刀是腰間之具及以二刀為十手理其徳無違故改十手為二刀之家誠武剣之精選也或飛真剣或投木戟北者走者不能逃避其勢恰如発強弩百発百中養由無踰于斯也夫悟得兵術於手彰勇功於身方年十三而始到播州新当流与有馬喜兵衛者進而決雌雄忽得勝利十六歳春到但馬国有大力量兵術人名秋山者丈決勝負反掌之間打殺其人芳声満街後到京師有扶桑第一之兵術吉岡者請決雌雄彼家之嗣清十郎於洛外蓮台野争龍虎之威雖決勝敗触木刀之一撃吉岡倒臥于眼前而息絶予依有一撃之諾輔弼於命根矣彼門生等助乗坂上去薬治温湯漸而復遂棄兵術雉髪畢而後吉岡伝七郎又出洛外決雌雄伝七袖于五尺余木刀来武蔵臨其機奪彼木刀撃之伏地立所死吉岡門生含寃密語云以兵術之妙非所可敵対運籌於帷幄而吉岡又七郎寄事於兵術会于洛外下松辺彼門生数百人以兵杖弓箭忽欲害之武蔵平日有知先之才察非義之働竊謂吾門生云爾等為傍人速退縦怨敵成群成隊於吾視之如浮雲何恐之有散衆之敵也以走狗追猛獣震威而帰洛陽人皆感嘆之勇勢智謀以一人敵万人者実兵家之妙法也先是吉岡代々為公方之師範有扶桑第一兵術者之号当千霊陽院義昭公之時召新免無二与吉岡令兵術決勝負限以三度吉岡一度得利新免両度決勝於是令新免無二賜日下無双兵法術者之号故武 蔵到洛陽与吉岡数度決勝負遂吉岡兵法之家泯絶矣爰有兵術達人名岩流与彼求決雌雄岩流云以真剣請決雌雄武蔵対云爾揮白刃而尽其妙吾提木戟而顕此秘堅結漆約長門与豊前之際海中有嶋謂舟嶋両雄同時相会岩流手三尺白刃来不顧命尽術武蔵以木刀之一撃殺之電光猶遅故俗改舟嶋謂岩流嶋凡従十三迄壮年兵術勝負六十余場無一不勝且定云不打敵之眉八字之間不取勝毎不違其的矣自古決兵術之雌雄人其算数不知幾千万雖然於夷洛向英雄豪傑前打殺人今古不知其名武蔵属一人耳兵術威名遍四夷其誉也不絶古老口所銘今人肝誠奇哉妙哉力量早雄尤異于他武蔵常言兵術手熟心得一毫無私則恐於戦場領大軍又治国豈難矣豊臣大閤公嬖臣石田治郎少輔謀判時或於摂州大坂秀頼公兵乱時武蔵勇功佳名縦有海之口渓之舌寧説尽簡略不記之加旃無不通礼楽射御書数文況小芸巧業殆無為而無不為者歟蓋大丈夫之一体也於肥之後州卒時自書於天仰実相円満之兵法逝去不絶字以言為遺像焉故孝子立碑以伝于不朽令後人見嗚呼偉哉

以上、宮本武蔵の碑の傍らに置かれている北九州市教育委員会の案内板の内容です











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スポットライト人物伝


【鑑真和尚(がんじんわじょう)】
(688年~763年)


5度の渡航に失敗し、6度目の渡航で来日を果たした唐の高僧です。観世音寺で日本初の授戒を行い、8年後にその地に戒壇院が建立されます。



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