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検索の結果 17件の記事が見つかりました


筑紫広門(1556年~1623年)【福岡人物伝】
筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と共に肥前東部に追われ養父(佐賀県鳥栖市北部)辺りに居を移したのかもしれません。後に筑紫氏は大内氏に従い、大内氏の滅亡後は毛利氏に同.....

名家衰退(1533年~)【福岡史伝・戦国】
南北朝時代が終わると、今川了俊は帰京の命が下され九州を去ります。代わって九州探題には足利家一門の渋川氏が任命されるのですが、探題と反りの合わない筑前守護の少弐氏は渋川氏と戦いこれを筑前より追います。しかしこの事が、大内氏の九州進出のきっかけとなります。 少弐氏は幕府の命を受け渋川氏を支援する大内氏.....

日本人は勝負事が好き?(2016年12月14日)【余談】
このところIR(Integrated Resort、統合型リゾート)法案で国会が騒がしくなっているようですが、観光客が増え、雇用が増え、税収が増えるのであれば悪くはないのではと、安易ではありますがそう思ってしまいます。外国人観光客も日本の「わび・さび」一辺倒ではどうなのでしょうか、滞在中の一日ぐらい.....

大夫(西暦57年頃~)【福岡人物伝】
西暦57年、奴国王の命により後漢に派遣され金印を持ち帰った人物です。中国・南北朝時代の432年頃に記された「後漢書」には「倭の奴国、貢物を奉って朝貢す。使者は大夫と自称す。」とのみ記載されています。大夫とは人名ではなく役職の事の様で、派遣された人物の氏名は伝わっていないようです。.....

「漢委奴国王」の読み方は?(「倭」は「委」から生まれた新漢字?)【わかっていない事】
金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡市博物館のサイトにも「王朝名(漢)の次に民族名(倭)、そして部族名(奴)がくるので、漢ノ委ノ奴ノ国王という読み方が代表的な解釈です」といった事が記載されていま.....

金印発見(1784年)【福岡史伝・江戸】
福岡の志賀島は神奈川の江ノ島と同じ「陸繋島(りくけいとう)-砂州で本土とつながる島-」で夏になると大勢の海水浴客で賑わいます。 1784年、金印はこの島の南端、叶の崎で小作人の秀治と喜平によって田んぼの中から発見されます。 金印は甘棠館(かんとうかん、福岡藩藩校)の館長、亀井南冥の元.....

今川了俊の失脚(1395年)【福岡史伝・南北朝・室町】
南北朝が統一(1392年)された三年後、第三代将軍の足利義満は、九州で勢力を伸ばす探題・今川了俊に危険性を覚え帰京の命を出します。 目の上の瘤だった了俊の失脚劇に少弐、大友、島津ら九州の守護たちは大喜びし、 特に「水島の変」で頭首を騙まし討ちにされた少弐氏は、敵(かたき)の了俊が無事.....

針磨原の戦い(1353年)【福岡史伝・南北朝・室町】
1353年1月22日、直冬が去り戦う名分を失くした少弐頼尚は大宰府の浦ノ城で九州探題・一色範氏の猛攻に晒されますが、 そこに宿敵・菊池武光の南朝軍が援軍に現われたため窮地を脱します。この時に少弐頼尚は武光に感謝し 「今より子孫七代まで、菊池の人々に向かって弓を引き、矢を放っことがあっ.....

九州南北朝年表(1336年~)【福岡史伝・南北朝・室町】
九州での南北朝の混乱は60年近く続きます。1392年に両朝が統一し、この戦乱は一旦収まるかに見えました。しかし、今川氏が九州を去った後には豊前、筑前へ大内氏が触手を伸ばします。このため騒乱は応仁の乱を経て戦国時代まで続きます。 以下に筑前、筑後、肥前を中心にした南北朝~室町時代後半の年表を記載しま.....

源平合戦後の九州(1185年~)【福岡史伝・鎌倉】
「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡すると、平家側の武将であった原田種直は領地を没収され鎌倉で囚われの身となります。 そして九州には源頼朝が武藤資頼(すけより)、大友能直(よしなお)、島津忠久(ただひさ)を派遣し、 武藤氏は九州北西部(現在の福岡北部、佐賀、長崎)、大友氏が九州北東部(現在の大分.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
小事を気にせず流れる雲のごとし
荻生徂徠





わかっていない事
 【金印はなぜ志賀島で…?その弐】-大夫の思惑は?-

「金印はなぜ志賀島で発見された?」で金印が志賀島で発見された理由を「金印の刻印が奴国王にとって都合の良くないものだったため」と記述しましたが、抽象的な疑問には幾通りもの説があって良いと思いますので、もう一つの説を載せようと思います。(以下では内容を解かり易くするため「奴国」を「那国」と替えて記述します。)
西暦57年、那国王の命で大夫(たゆう・官職名)は後漢に派遣されますが、後漢の光武帝は朝貢品の返礼に「漢委奴国王」と刻印された金印を送ります。
大夫はこの金印を携え帰国しますが、その帰路に金印を那国王に提出すべきか迷います。
「漢委奴国王」の意味は「漢の委する奴国王」で那国王は漢の皇帝に任命された事になってしまいます。また、それに輪を掛けるように「那国」の「な」が奴隷の「奴」に書き換えられているのです。これを提出してしまうと、那国王より怒りを買うのは目に見えています。
そこで大夫は那の津の港に入る直前に志賀島付近に停泊し、信用のできる部下たちと相談の上、志賀島に小船で上陸し極秘裏に金印を埋め隠します。その後、金印は忘れられ、1700年後の江戸時代に農民によって発見された。といった筋書きは余りにも想像力がたくまし過ぎでしょうか?

この頃より約500年後の飛鳥時代に遣隋使の小野妹子は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや」といった書状を隋の皇帝に届け、皇帝の機嫌を損ねます。皇帝は返書を小野妹子に託しますが、妹子はこの返書を朝廷に提出する事はありませんでした。想像なのですが、大夫もこの小野妹子と同じ状況の中にあったのかもしれません。









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スポットライト人物伝


【加藤司書(かとうししょ)】
(1830年~1865年)


西洋諸国の介入を招く恐れのある国内対立を早期に収束させるため、 西郷隆盛と共に第一回長州征討軍解兵に尽力します。しかし一年後には藩内・佐幕派の台頭で「乙丑の獄」が起こり、 博多の天福寺で切腹することになります。 ちなみに福岡藩と土佐藩の成り立ちは「関ヶ原の戦い」より徳川家の天下平定に協力し、外様ながら譜代以上の待遇を得ていることで類似しています。 また幕末には勤王党が活発な活動をし、弾圧された面.....[全文を表示]



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