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毛利勝永(1578年~1915年)【福岡人物伝】
毛利勝永は秀吉配下の森吉成(のち毛利勝信)の嫡男で、九州征伐の功により、田川企救郡を賜った父に従い小倉城に入ります。そして父・勝信は、約13年間この地を治めますが、その間に近隣の大勢力・毛利氏との繋がりで、姓を毛利に改めます。しかし毛利氏との間に太い血縁はなかったようです。 関ヶ原の戦いでは西軍に.....









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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

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はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

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【記想録】夢想権之助の挑戦

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【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
外交の極意は、誠心誠意にある
氷川清話





福岡史伝・平安
 【平清盛「袖の湊」を築く】(1158年~1170年代)

正確な年代は不明ですが平安時代の末期、博多に「袖の湊」が築かれます。この港は平清盛が築いたのではないかといわれていますが、 その説が正しいとすれば、1158年、清盛が大宰大弐に任命された以降と思われます。 この任命に前後して起こった「保元の乱」と「平治の乱」で対抗する有力者を倒し権力を握った清盛は、 巨額な利益を生み出す「日宋貿易」に目をつけ独占化を狙います。
おそらくこの1158年から弟の平頼盛が筑紫に派遣された1166年の辺りに「袖の湊」は築造されたもと想像されます。
ちなみに「博多どんたく」の前身「博多松囃子(はかたまつばやし)」は清盛の長男、平重盛の恩恵に感謝のため始められたものと「筑前国続風土記」に書かれている そうです。「袖の湊」との関わりは不明ですが、これが事実とすれば平家の人々が博多の町に深く関わっていたという事になります。

現在その「袖の湊」がどの辺りにあったか不明ですが、住吉神社の「博多古図」や「筑前国続風土記 巻之四 博多 袖湊」の内容、 菅原道真の筑紫上陸の地が網場町といった言い伝えより、 おそらく那珂川と御笠川の間にある網場町、古門戸町、奈良屋町、中呉服町(博多区)辺りにあったものと想像されます。

(2011.6.26)


「筑前国続風土記」に記載される「袖の湊」について詳しく知りたい方はこちらへどうぞ!
中村学園電子図書館「筑前国続風土記」(pdf)のページへリンク









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スポットライト人物伝


【母里太兵衛(ぼりたへえ)】
(1556年~1615年)


黒田家の武将。「黒田節」は太兵衛が大杯の酒を呑み干し福島正則より名槍「日本号」を受け取った出来事を唄にしたものです。 太兵衛はこの唄で詠われた「日本号」を朝鮮役で太兵衛の窮地を救った後藤又兵衛へ送ったといわれます。 そして「大阪夏の陣」で又兵衛が討死すると、太兵衛もまた時をおかず死去しています。



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