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毛利氏の筑前侵攻(1557年~)【福岡史伝・戦国】
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種と五ヶ山(佐賀県鳥栖.....

名家衰退(1533年~)【福岡史伝・戦国】
南北朝時代が終わると、今川了俊は帰京の命が下され九州を去ります。代わって九州探題には足利家一門の渋川氏が任命されるのですが、探題と反りの合わない筑前守護の少弐氏は渋川氏と戦いこれを筑前より追います。しかしこの事が、大内氏の九州進出のきっかけとなります。 少弐氏は幕府の命を受け渋川氏を支援する大内氏.....

休松の戦い(1567年)【福岡史伝・戦国】
毛利氏は周防長門を平定し次に東の尼子氏を倒すと、大内氏の領した筑前を取り戻すため動き出します。 1567年8月、筑前では毛利氏の支援を受けて秋月種実が大友氏に反旗を翻します。 大友宗麟は戸次鑑連(べっきあきつら・後の立花道雪)、吉弘鑑理(よしひろあきなお・高橋紹運の実父)、臼杵鑑速(うすきあきす.....

戦国時代(少弐氏から大友氏へそして「岩屋城の戦い」)【一夜漬け福岡史】
筑前で少弐氏の抵抗を封じ、肥前に追い詰めた大内義隆ですが、1551年には重臣の陶晴賢に滅ぼされ、 筑前には豊後の大友義鎮(宗麟)が勢力を伸ばします。 しかし、今度は陶晴賢を倒し大内氏の地盤を取り込んだ中国の雄・毛利元就が侵攻してきます。 これを大友宗麟は多々良浜で迎え撃ち対峙します.....

秋月種実(1548年~1596年)【福岡人物伝】
父親の秋月文種を大友宗麟の配下、戸次鑑連(べっきあきつら)に討たれたため毛利元就の元に身を寄せます。 そして種実は元就の協力を得てを秋月に帰還し大友氏へ対し抵抗の狼煙を挙げます。 1567年の「休松の戦い」では父の仇・戸次鑑連に奇襲をかけ大混乱に落としいれ一矢報います。 種実は大の大友嫌いだったよ.....

小早川隆景(1533年~1597年)【福岡人物伝】
毛利元就の三男で、戦国時代の「多々良浜の戦い」では大友氏の猛将・戸次鑑連(べっきあきつら)とも戦っています。 秀吉の九州平定後は北部九州を任せられ、博多の北方5㎞の多々良川河口に名島城を築きます。 その後、養子の小早川秀秋(秀吉の正妻・ねねの甥)に名島城を譲り、自らは広島三原に戻り余生を過ごします。.....

高橋鑑種(1529年~1579年)【福岡人物伝】
一萬田氏の出で大友宗麟の有力武将。筑前・高橋家に養子として入り宝満城を任され、支城の岩屋城を築きます。 1567年、筑前侵攻を目指す毛利元就の調略により反旗を翻します。 しかし後方を撹乱された元就が中国へ撤退すると、孤立し筑前を追われることになります。 この謀反の理由は宗麟が鑑種の実家・一万田家を.....

毛利元就(1497年~1571年)【福岡人物伝】
主家・大内氏を倒した陶晴賢(すえはるかた)を「厳島の戦い」で破り、大内氏の地盤を手にすると次に筑前へ進出し大友宗麟と対立します。 元就は宗麟に父を殺された秋月種実に兵を与え秋月に帰還させた上、抵抗させ、 次に大友氏の有力武将・高橋鑑種(たかはしあきたね)を調略し謀反を起させます。 しかし大友宗麟の支.....









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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
其の疾(はや)きこと風の如く、其の徐(しずか)なること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷(いかずち)の如くして
孫子





福岡史伝・弥生・古墳
 【三国動乱の朝鮮へ】(300年代~600年代)

倭国は、西暦300年代に三国時代(高句麗、新羅、百済)の朝鮮へ進出し伽耶に駐屯します。 そして新羅が伽耶諸国を併合した西暦500年代中頃までには朝鮮半島から撤退したものと思われます。
この経緯とその後を年表で表記します。


■三国動乱の朝鮮へ■

年代 出来事 出典 天皇
300年代 熊襲の抵抗。
仲哀天皇が崩御し「熊襲との戦」から「新羅との戦」へ移行。
日本書紀 景行天皇
(日本武尊)
仲哀天皇
329年頃 日本書紀の記述ではこの頃に神功皇后が朝鮮半島に侵攻したと思われる? 日本書紀 不在
372年頃 百済の近肖古王と太子の貴須が倭国王「旨」に「七支刀(七枝刀)」を送る。 七支刀の銘文
日本書紀
応神天皇
389年頃 日本書紀の記述ではこの頃に神功皇后が崩御したと思われる。 日本書紀 応神天皇
391年 倭国が朝鮮半島に侵攻し、百済、新羅を破り臣従させる。 好太王碑 応神天皇
393年 倭国軍が新羅の都を包囲する。 三国史記 応神天皇
397年 百済が倭国へ人質として王子を送る。 三国史記 応神天皇
399年 倭国が百済と同盟し新羅に攻め込む。新羅は高句麗へ救援を求める。 好太王碑 応神天皇
400年 高句麗が5万の兵で新羅を救援に向かうと倭国は退却するが、 それを追うと隙を突いて安羅(伽耶の一国)軍が新羅の都を占領した。 好太王碑 応神天皇
402年 新羅が倭国へ人質として王子を送る。 三国史記 応神天皇
404年 倭が帯方郡に侵攻してきたが、高句麗軍はこれを攻めて撃破した。 好太王碑 応神天皇
413年 倭王讃が東晋に朝献。 晋書 仁徳天皇
421年 倭王讃が宋に朝献し、武帝から除綬を給う。 宋書 仁徳天皇
425年 倭王讃が宋の文帝に朝献。 宋書 仁徳天皇
430年 倭王、宋に朝献。 宋書 仁徳天皇?
432年頃 履中天皇即位。(在位5年で病のため崩御) 履中天皇
438年 倭王讃没し弟珍立つ。この年、宋に朝献し自ら「使持節都督倭、百済、新羅、任那、秦韓、慕韓、六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し任命を求める。
宋の文帝は珍を安東将軍倭国王に任命する。
宋書 反正天皇
443年 倭王済、宋の文帝に朝献し、安東将軍倭国王を認められる。 宋書 允恭天皇
451年 倭王済、宋の文帝から「使持節都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓、六国諸軍事」を加号される。
安東大将軍に進号する。
宋書 允恭天皇
460年 倭王、孝武帝へ朝献。 宋書 允恭天皇?
462年 宋の孝武帝は、済の息子の興を安東将軍倭国王とする。 宋書 安康天皇
477年 倭王興、宋に朝献。
先立って興は没し弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭、百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓、七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。
宋書 雄略天皇
478年 倭王武は、自ら「開府儀同三司」と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓、六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。 宋書 雄略天皇
479年 南斉の高帝は倭王武を鎮東大将軍に進号。 南斉書 雄略天皇?
502年 梁の武帝は倭王武を征東大将軍に進号する。 梁書 雄略天皇?
512年 大伴金村が百済の要求に応じ、任那四県を割譲する。 日本書紀 継体天皇
527~
528年
磐井の乱が起こる。528年11月筑紫平野北部で戦うが磐井は破れ乱が平定される。 日本書紀 継体天皇
529年 近江毛野(おうみのけな)朝鮮に渡り、交渉のため新羅、百済の王の来訪を促すが、逆に攻められる。 日本書紀 継体天皇
531年 継体天皇が崩御する。   継体天皇
537年 新羅が任那へ侵攻したため、大伴金村の子、磐(いわ)と狭手彦(さてひこ)の兵を任那へ派遣した。 日本書紀 宣化天皇
562年 伽耶が新羅に併合される。 欽明天皇
562年 任那が降伏したため新羅に紀男麻呂(きのおまろ)を派遣するが任那を復興できず。 欽明天皇
そ の 後
660年 新羅・唐の連合軍が百済を滅ぼす。 斉明天皇
663年 中大兄皇子は百済復興のため朝鮮に出兵するが、白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れる。 日本書記 (中大兄皇子)
668年 新羅・唐の連合軍が高句麗を滅ぼす。 天智天皇
672年 「壬申の乱」で大友皇子を破った天武天皇が即位し新羅とは和平路線をとる。 天武天皇
676年 新羅が唐を追い朝鮮半島を統一する。 天武天皇

は倭国に関する出来事。
は朝鮮に関する出来事。
は中国の史書。

「倭の五王」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2011年6月11日(土)23:22
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B

「好太王碑」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2011年6月12日(日)21:05
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91



(2011.6.18)









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スポットライト人物伝


【筑紫広門(ちくしひろかど)】
(1556年~1623年)


筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と共に肥前東部に追われ養父(佐賀県鳥栖市北部)辺りに居を移したのかもしれません。後に筑紫氏は大内氏に従い、大内氏の滅亡後は毛利氏に同盟し豊後の大友氏と戦います。

筑紫広門は父・惟門が大友氏に討たれたため筑紫氏を.....[全文を表示]




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