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福岡悲話
 【おしどり伝説】(戦国時代)-三原貞吉の話-

貝原益軒は「筑前國続風土記」に次のような話を載せています。

戦国の頃、筑後三原郡に三原貞吉(みはらさだよし)という武将がいました。大友氏の配下で、ある日に所用で主家の豊後へ出かけます。その途中、志波村(現在の原鶴温泉から北西の地帯)の香山淵を通りかかると、鴛鴦(おしどり)のつがいが仲良く泳いでいるのを見つけます。弓に自身のあった貞吉は腕試しに雄鳥を射殺してしまいます。そして、その雄鳥を拾い上げてみると、矢は首に当たったようで躯(むくろ)となり果てていました。
その後、豊後に行きしばらく逗留した貞吉は、その帰路に再び香山淵を通りかかると、先日の雌鳥の鴛鴦が一羽でいるのを見つけます。「これは得たり」とこの雌の鴛鴦も弓で射抜いてしまいます。そして、その鴛鴦を拾い上げてみると、なんと羽の内には先日射殺した雄鳥の首が擁かれていたのです。
この首を目にした貞吉は自分の行為の罪深さを知り、時を置かずに出家の道を選んだという事です。

最後に益軒は「沙石集第八巻」や「近比丸鑑」という書物に同じような話が記載されていることを指摘しています。


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おしどり伝説(三原貞吉の話)【福岡悲話】
貝原益軒は「筑前國続風土記」に次のような話を載せています。 戦国の頃、筑後三原郡に三原貞吉(みはらさだよし)という武将がいました。大友氏の配下で、ある日に所用で主家の豊後へ出かけます。その途中、志波村(現在の原鶴温泉から北西の地帯)の香山淵を通りかかると、鴛鴦(おしどり)のつがいが仲良く泳いで.....









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-どんな大事な事でもそれのみを信じていると、その大事なこと自体が無意味な事になってしまう-
孟子





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 【小倉碑文とは?】(江戸時代)-宮本武蔵の碑-

小倉碑文
小倉碑文は小倉藩家老の宮本伊織が養父・武蔵の事蹟を残すために小倉・手向山(たむけやま)に建立した石碑になります。ここには六十数回に及ぶ武蔵の決闘の中から六つの決闘の事が記載されています。歴史的に見てすべてが事実なのか疑問視される点もあるようですが、武蔵がただ者ではない事だけはひしひしと伝わる碑文となっています。
下に碑文を解かり易く訳した内容を記載しておきます。
天仰 実相 円満 兵法 逝去 不絶

兵法天下無双

1654年4月19日、孝子、武蔵を敬って建立
1645年5月19日、肥後熊本に於いて死去
兵庫県赤松氏の子孫・新免武蔵玄信二天居士の碑

臨機応変の者は良将の域に達する者である。武を講じ兵を習う事は兵事に重要なことである。文武に心を遊ばせ、兵術に手を舞わせ、名誉をたくましくする者は誰あろう播州赤松新免の末裔・武蔵玄信。号は二天。天性闊達で細かい事にこだわらない人物で二刀兵法の祖となる。父親は新免無二と号し、十手の術家であった。武蔵は家を継ぎ朝夕研鑽、試行錯誤をし、十手の利は刀に倍するものと知る。しかし十手は常用する武器ではなく、二刀は腰に差す武器で二刀で十手の利を補えば、違うところはない。そこで十手を改めて二刀の術家となる。
誠の剣術の達人である。真剣を飛ばし、または木刀を投げ、逃げる者、走る者でもこれを回避することはできない。その刀の速さはまるで弓を射るようである。百発百中、中国の弓の達人・養由も彼を超えることはない。

兵術を悟り、勇功を身に着け、歳13で播州にて新当流の有馬喜兵衛と雌雄を決し勝利を得る。

16歳春に但馬に到り大兵術家の秋山という者と戦い反撃で勝負を決しこれを打ち殺す。街には彼の評判が広がった。

のちに京都に到り、扶桑第一の兵術家・吉岡家に試合を請う。
吉岡家の嗣・清十郎と洛外の蓮台野にて竜虎の威を争うも、木刀の一撃で清十郎は眼前に倒れ伏し勝敗を決する。一撃勝負の約束があったため門下生が板に助け乗せて去る。薬治、温湯を付し、しばらくして回復するがついに兵術を捨て剃髪してしまった。
その後、吉岡伝七郎が洛外にて再び雌雄を決する。伝七郎は袖に五尺ほどの木刀を持参したが、武蔵は期を見て彼の木刀を奪いこれを撃つ、伝七郎は地に倒れて死んだ。
吉岡の門下生は相談して「兵術ではかなわない。策をめぐらして武蔵を撃つ」と吉岡亦七郎は決闘という名目で洛外の下松にて待ち合わす。しかしそこには彼の門下生数百人が兵杖や弓を以って武蔵を倒そうと待ち構える。日頃から先を知る才能があり、この不穏な動きを察知して、自分の門下生に「お前たちは関わらず思いのまま早く退け」という。「敵は群れをなし隊をなすが、私が視るに浮雲の如し、何を恐れる事があるか、有散衆の敵である」と走り回る猟犬を追う猛獣の様に威を振るい、散々に追い散らして立ち去った。洛陽の人々はこの話を聞いて感嘆した。勇勢智謀、一人で以って万人を敵する事ができる者は、兵法の妙法を知るものである。
これより先の事、吉岡家は代々足利家の師範を務め日本第一の兵術者と号されていた。足利義昭公の時、武蔵の父・新免無二を召し、吉岡と勝負を命じる。三本勝負とし吉岡が一本を取り、新免が二本を取り勝負は決した。これにより新免無二は日下(ひのもと)無双兵法術者の称号を賜る。この経緯から武蔵は洛陽にて吉岡一門と数度の勝負を決し、遂に吉岡兵法の家は滅んで絶えた。

ここに兵術の達人・岩流と言う者がおり、武蔵に雌雄を決する事を求めた。岩流は真剣勝負を求めたが、武蔵はこれに対し「あなたは白刃を揮(ふる)って妙技を尽くせばよい。私は木刀を以て秘術を顕わそう」と硬い約束を交わした。長門と豊前の間の海中に舟嶋という嶋があり、両雄はここに相会し岩流は三尺の白刃を手に命を顧みず術を尽くす。武蔵は木刀を以て電光よりも早い一撃でこれを殺した。故に舟嶋は俗に岩流嶋と言われる様になった。

おおよそ十三より壮年まで兵術勝負六十数回、ひとつも勝たないことはなかった。敵の眉間を撃たなければ勝とはせず、その的を外すことはなかった。古くから兵術の雌雄を決した人の数は幾千万かわからないが、ところを選ばず英雄豪傑を相手にこれを撃ち倒す。このような人は武蔵以外に見当たらない。兵術の威名は全国に響き、その勇名は古老の語るところとなり、人の心に残こるものである。本当に奇なるか妙なるか力量早雄は他の者とは異なるものである。

武蔵は常日頃からこのように語った。「兵術を技術的にも精神的にも習得し、その上で僅かでも私心が無ければ、大軍のぶつかり合う戦場で戦う事も国を治める事もそうは難しいことではない」と
豊臣大閤公の寵臣・石田三成謀反の時、秀頼公兵乱の時、武蔵の勇功佳名は海にも川にもあり、説き尽くされている。略記する必要もないだろう。 また兵術以外にも礼、楽、射、御、書、数、文に通じ、他に小芸や工芸などにも触れ、幅広い知識があり、稀代の偉丈夫であった。

肥後において逝去する際、自書の「天仰実相円満之兵法逝去不絶」の文字を遺像とせよと遺言する。よって孝子は碑を建て後世に永く伝える事とする。
嗚呼偉大なり。



孝子・・・養子・伊織自身の事
養由・・・春秋時代の楚の武将で弓の達人。弓をつがえただけで狙われた猿が泣き叫んだと伝わる
扶桑・・・中国の伝説で遥か遠くの東方にそびえ立つ巨木またはその地。転じて日本の事。
嗣・・・家を継ぐ者
蓮台野・・・京都市北区紫野東蓮台野町
下松・・・京都市左京区一乗寺花ノ木町
礼、楽、射、御、書、数、文・・・作法、音楽、弓、乗馬、書道、算術、文筆
天仰実相円満之兵法逝去不絶・・・「天を仰ぎ真実に触れ欠ける事のない兵法は逝去しても絶える事なし」
意味が不明な単語はそのまま掲載しました。









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スポットライト人物伝


【高場乱(たかばおさむ)】
(1831年~1891年)


男子として育てられた男装の女医で、かつ教育者。金印の鑑定をした亀井南冥の学派の塾に学び、後に興志塾を起します。 「福岡の変」には塾生から多く者が参加しています。そして1889年に教え子の来島恒喜(くるしまつねき)が大隈重信暗殺未遂事件をおこし自決すると、 来島の死を嘆きながらも「匹夫の勇」と厳しい言葉を投げかけています。



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