■福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!
■名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡
■福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々
■意外な話…それってホント?意外すぎる話。
■よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!
■一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ
■福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要
■名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です
■リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。
■余談…ひとり言的な話です
■更新履歴…アップした日付
■訂正履歴…間違い直しの履歴です
■はじめに…お願いと参考書
2022.12.25
【記想録】是れを過ちと謂う
2022.12.4
【記想録】冷眼にて人を観る
2022.11.5
【記想録】人を責むる者は・・・
2022.10.15
【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?
2022.9.18
【記想録】小敵の堅は大敵の擒なり
2022.9.13
【記想録】怒りを以って師を興すべからず
2022.8.27
【記想録】佐々木小次郎の経歴
2022.8.1
【記想録】完戸何某との決闘
2022.7.24
【記想録】夢想権之助の挑戦
2022.7.3
【記想録】行蔵は我に存す
天守閣より見た小倉城庭園
【小倉城】 細川忠興は、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦の功により、豊前国全域と豊後国二郡を領する三十万石(検地高三十九万九千石)の大名として入国、中津城に在城した。居城を小倉に移すため慶長七年これまでの小倉の城を廃して新しく築城をはじめ、その年の十一月、小倉城へ移った。 城の中心は、天守閣のある本丸と松ノ丸、北ノ丸で、これを囲むようにしてニノ丸、三ノ丸を配した。 天守閣の外観は五重、内部は六層(現天守閣は、四重五層)である。これは、五星目の内部が上下二段に分かれているためで、五重目の下段までは、白壁が塗り込まれ、上段は黒塗りで張り出しになっている。また天守閣の屋根には、破風がなく、当時この天守閣は、唐造りと称されていた。 城のすぐ東を流れる紫川を天然の濠とし、この川をはさんで東西に曲輪を設け、城下町をつくった。城郭の総構えは、約八キロメートルにもおよび、これを濠で囲み、街道に通じる八か所の門を設けた。 寛永九年(一六三二)細川氏は、肥後国に移り、替わって播磨国明石城主であった譜代大名の小笠原忠真が小倉城に入り、十五万石を領した。 第二次長州征伐戦の慶応二年(一八六六)八月一日、小倉藩は、田川郡に撤退する際、小倉城に火を放ち、城内の建物はことごとく灰じんに帰した。なお、天守閣は、天保八年(一八三七)の火災で消失、以降再建されなかった。 現在の天守閣は、昭和三十四年鉄筋コンクリートで、再建されたものである。
【筑紫広門(ちくしひろかど)】(1556年~1623年)筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と共に肥前東部に追われ養父(佐賀県鳥栖市北部)辺りに居を移したのかもしれません。後に筑紫氏は大内氏に従い、大内氏の滅亡後は毛利氏に同盟し豊後の大友氏と戦います。 筑紫広門は父・惟門が大友氏に討たれたため筑紫氏を.....[全文を表示]
▲