記事検索 

検索の結果 対象の記事が見つかりませんでした










目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2021.8.5

【記想録】「九州にも千歳川?」に加筆

2021.8.4

【記想録】一身の得喪は慮るに足らず

2021.8.2

【記想録】不可なるを知りて為す者か

2021.8.1

【記想録】自由と我が儘との境は?

2021.7.27

【記想録】博奕を成すは猶お已むに賢れり

2021.7.26

【記想録】其の長ずる所を説かしむべし

2021.7.25

【記想録】外から見て御覧ナァ

2021.7.24

【記想録】最も藻鑑を累わす

2021.7.23

【記想録】過を改むる者は鮮なし

2021.7.22

【記想録】物事に数寄好みなし

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
奮つてその身を世間の風浪に投ず
氷川清話





名所旧跡・博多区
 【博多総鎮守 櫛田神社】-博多区上川端町-



博多の総鎮守、櫛田神社の祭神は大幡主大神、天照皇大神、素盞嗚大神の三神で、「博多祇園山笠公式ホームページ」には大幡主大神が祀られたのが757年、天照皇大神は記録になく、素盞嗚大神を祀ったのが941年のことと書かれてあります。 素盞嗚大神を祀ったのは平安時代の「藤原純友の乱」で下向し鎮圧した小野好古といわれ、その後、1587年には戦国時代の騒乱で荒廃した博多を再建する「太閤博多町割り」で本殿が建立されることになります。
また全国的に知名度の高い神事「博多祇園山笠」は鎌倉時代に聖一国師が、当時流行した疫病を鎮めるため町人の担ぐ施餓鬼棚に乗って博多の町に祈祷水を撒いて廻ったのが始まりといわれています。

境内には「太閤博多町割り」で建てられた「博多べい」、「川上音二郎寄進の碑」、樹齢千年といわれる「大銀杏」、「蒙古軍の碇石」、「飾り山」などの観光の見どころが多数あります。



櫛田神社 楼門

【博多総鎮守 櫛田神社】

   御祭神 左殿 天照皇大神 (大神宮)
       中殿 大幡主大神 (櫛田宮)
       右殿 素戔嗚尊  (祇園宮)

   例 祭 五月三日四日   博多どんたく
       七月一日~十五日 博多祇園山笠
       十月二十三日   博多おくんち

當社は鎮西の雄都博多の守護神とし天平宝字元年託宣により 大幡主大神を鎮祭した 天照皇大神の御鎮座は之より更に古い 素戔嗚尊の奉祀は天敬四年に追討使小野好古が反亂の鎮定に 下向し京都祇園宮を勧請して祈願した由縁による
爾来 源平合戦蒙古軍の襲来等九州の地に異變勃発の 重大事ことに史上有名の人士を始め一般庶民の篤い尊崇を集め 就中菊池武時豊臣秀吉等の祈請の事蹟は廣く世に知られて いる 近時福岡市の発展と共に殖産興業陸海交通の守神 として信仰愈々篤くまた開運厄除不老長寿の神として 今日の社頭の隆盛を見るに至っている
當社の祭禮中祇園例大祭は国の重要無形民俗文化財に 指定された博多祇園山笠の奉納行事によって全国的に名聲 を博し七百五十有余年傅来の夏祭の豪華版である
尚社頭の銀杏の木は天然記念物に指定され古くから博多の 祝い歌となって親しまれ神木として名高い

  県指定天然記念物
       櫛田の銀杏
  県指定無形文化財 國重要無形民俗文化財
       博多祇園山笠
       博多松ばやし
  その他 博多関係の文化財を始め幾多の資料を蔵している

  特殊神事 博 多 節 分 祭(二月節分の日)
       ぎ な ん 祭(三月十二日)
       夫婦恵比須千座祭(十二月二日三日)
                                 社務所

櫛田神社の石版より










福岡史伝へのアクセスにはこのQRコードをご利用ください
https://www.2810w.com


スポットライト人物伝


【貝原東軒(かいばらとうけん)】
(1651年~1713年)


秋月藩士の娘で益軒の妻女。1668年に数え年18歳で39歳の益軒と結婚します。書・和歌の他、箏(そう・琴に似た楽器)や胡琴(こきん・中国から伝わった弦楽器)などの楽器にも通じていました。益軒の著作編纂を陰から助け、「女大学」を記述したのは東軒ではないかといった説もあります。益軒が没する前年に63歳で亡くなっています。


このページは ClubTwinHut が運営しています



© 2011 福岡史伝