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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.1.8

【記想録】則ち誠聞こえず

2022.1.1

【記想録】かならず利害に雑う

2021.12.26

【記想録】禍は口より出で

2021.12.25

【記想録】寧耐は事を成す

2021.11.6

【記想録】姦悪をなす者その才人に過ぐ

2021.10.17

【記想録】口に才ある者は・・・

2021.10.4

【記想録】衆これを悪むも必ず察す

2021.9.11

【記想録】志無きの人は鈍刀の如し

2021.8.28

【記想録】則ち怨み遠ざかる

2021.8.22

【記想録】三十六策、是れ走を上計とす

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
自由と我が儘との境は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり
福沢諭吉





名所旧跡・太宰府・筑紫野
 【水城東門跡】-太宰府市国分-



水城大堤之碑

水城の東西端には門が設けられました。ここはその東門跡で、都から大宰府への玄関口でした。 大宰府に赴任する官人たちは、水城の門で出迎えを受け、また送り出されました。実際、寛弘2(1005)年に大宰大弐として赴任した藤原高遠は、水城で大宰府の印と鍵を受けとり、また、天平2(730)年に大宰帥大伴旅人が帰京した時は、水城で役人たちに見送られています。 東門は、藤原高遠の和歌に「岩垣の水城の関」と詠われていることから、門の両側には石垣が築かれていたと考えられます。その後、寿永2(1183)年までは、門が存在したようですが(『平家物語』巻第8)、元寇のことを記した『八幡愚童訓』には、礎石があるのみと記され、13世紀後半には、門は無くなっていたことがわかります。その後もここは交通の要衝であったことから、大きく改変され、江戸時代には街道脇に礎石が1個残るのみとなっていました。 平成26(2014)年に一部発掘調査を行いましたが、撹乱されており、門の遺構は残っていませんでした。しかし、門外の脇に造られたと推測されるL字形に曲がる溝が確認されたことや土塁との位置関係などから、門は礎石があるこの付近にあったと推測されます。

平成28年12月 太宰府市教育委員会

太宰府市教育委員会の案内板より

水城
東門礎石










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スポットライト人物伝


【篠原泰之進(しのはらたいのしん)】
(1828年~1911年)


筑後浮羽の出身で関東で攘夷活動に走ります。その後、伊東甲子太郎に従い京都にて新選組に加入しますが、2年と数ヶ月後には伊東ら同士と共に御陵衛士(ごりょうえじ)を創設し新選組より離脱します。新選組はこの行動を表向きには了承しますが、脱隊を原則違反とする新選組の近藤勇、土方歳三らは伊東甲子太郎を謀殺、遺体を引き取りに来た御陵衛士を待ち伏せし3名を斬殺します。多勢に無勢で篠原ら数名はその場から逃走し薩摩藩.....[全文を表示]



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