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道君首人の農政改革(713年)【福岡史伝・奈良】
若き頃に法律を学び官僚としても優秀だった道君首名(みちのきみおびとな)は53歳の頃に筑後守として赴任します。 年齢からして第一線を退き、引退までの繋ぎの赴任だったのかもしれませんが、 首名は筑後で果物や野菜の栽培、畜産を促進し、また同時に灌漑対策も進め農政に力を入れます。 そし.....









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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2021.1.10

【記想録】島津義久降伏す

2021.1.5

親魏倭王印はどこにある?を追加

2021.1.4

金印の「委」は「倭」の略字?を追加

2021.1.2

「漢委奴国王」の読み方は?に加筆

2020.12.31

【記想録】村重、孝高を禁獄す

2020.12.30

【記想録】摂津播磨離反す

2020.12.27

【記想録】備中高松城の水攻め

2020.12.22

【記想録】孝高の説得術

2020.12.20

【記想録】原田氏の先祖の事

2020.12.19

【記想録】長宗我部信親の最期

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
取らんと欲する者はまず与えよ
老子





福岡史伝・平安
 【芦屋から壇ノ浦へ】(1183年~1185年)


芦屋町山鹿の城山。手前は遠賀川河口
豊後の緒方氏の兵に大宰府を追われた平家一門は博多の東の箱崎を抜け、そこから東の海岸沿いに遠賀川河口の山鹿へ向かいます。 山鹿といえば熊本県山鹿市が有名なのですが、福岡県遠賀郡の芦屋町にも山鹿という土地があり平家物語に出てくる山鹿はこちらになります。
平家一門は原田種直に護衛され芦屋に入りますが、種直は山鹿の豪族・山鹿秀遠と不和であったため芦屋海岸(広大な砂浜の地帯)辺りで引き返します。平家の人々は芦屋の砂浜を眺め「都(京都)と福原(神戸)を通うときによく通った里の名前(芦屋)と同じですね」と懐かしむと共に数年前までのよき時代を想い、重い空気が流れたことを平家物語は描写しています。

この芦屋海岸を過ぎると遠賀川河口に突き当たり、この河口を渡ると山鹿の地に入ります。現在、遠賀川には「芦屋橋」という橋が架かっていて、この橋の東に城山と呼ばれる小高い山があるのですが、この山が山鹿氏の居城であったと言われており「山鹿秀遠之城址」の碑も建てられています。 安徳天皇と平家一門はこの城山から東へ500mほど離れた陵丘の別邸に入ったと言われ、現在その地は「大君」と呼ばれ近年「安徳天皇行在所跡」という碑が建てられています。


「安徳天皇行在所跡」の碑
その後、平家一門は柳が浦(現在の北九州市門司区大里)に移るものの九州に安住の地がない事を悟り、四国・屋島へ、次に長門・彦島へと逃れます。
一方、原田種直は奇しくも平家一門と別れた芦屋海岸に上陸して来た源範頼と戦うものの敗れ去り(芦屋浦の戦い)、虜囚の身となり戦後に鎌倉に送られます。山鹿秀遠は最後まで平家一門に付き従い、壇ノ浦では主力の大将として戦いますが時の勢いは変えられず敗北、壇ノ浦で平家一門と運命を共にしたのか、以後、歴史に登場することはない様です。 原田、山鹿の両将は敗北の将とは言え、四面楚歌となった平家のために最後まで戦った義将と呼ぶに相応しい人物に違いありません。








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スポットライト人物伝


【筑紫広門(ちくしひろかど)】
(1556~1623)


筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と共に肥前東部に追われ養父(佐賀県鳥栖市北部)辺りに居を移したのかもしれません。後に筑紫氏は大内氏に従い、大内氏の滅亡後は毛利氏に同盟し豊後の大友氏と戦います。

筑紫広門は父・惟門が大友氏に討たれたため筑紫氏を.....[全文を表示]



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