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検索の結果 3件の記事が見つかりました


金印はなぜ志賀島で…?その弐(大夫の思惑は?)【わかっていない事】
「金印はなぜ志賀島で発見された?」で金印が志賀島で発見された理由を「金印の刻印が奴国王にとって都合の良くないものだったため」と記述しましたが、抽象的な疑問には幾通りもの説があって良いと思いますので、もう一つの説を載せようと思います。(以下では内容を解かり易くするため「奴国」を「那国」と替えて記述しま.....

壬申の乱-筑紫-(672年)【福岡史伝・飛鳥】
天智天皇が崩御すると、その半年後の672年6月に、吉野で出家していた天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)が東国に向かい、挙兵の動きを示します。 時の都の大津では不穏な空気が流れ人々は避難の準備を始めます。 天智天皇の子・大友皇子(おおとものおうじ)はこれに対し、地方官や豪族たちに援軍を出させ.....

飛鳥時代(白村江の戦いから大宰府の誕生)【一夜漬け福岡史】
645年「乙巳の変(いっしのへん)」で蘇我氏を倒し政権を奪取した中大兄皇子は 663年、新羅・唐の挟撃にあい滅亡した百済の復興支援するため朝鮮に軍を派遣します。 しかし「白村江の戦(はくそんこうのたたかい)」で新羅・唐の連合軍に大敗を喫したため、 九州の防衛に力を入れる事になります.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2020.10.14

【記想録】勝龍寺城攻め

2020.10.11

【記想録】本能寺の変を報せた男

2020.9.27

懐良親王終焉之地を追加しました

2020.9.26

男装の漢詩人・原采蘋を追加しました

2020.9.6

名所旧跡に水城西門跡を追加しました

2020.9.4

名所旧跡に小水城跡を追加しました

2020.9.3

マイナーチェンジを行いました

2020.9.2

筑後みやまの平家伝説を追加しました

2020.8.10

船迫窯跡を追加しました

2020.8.7

朝倉の三連水車を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
少し心の歪みに付いて、後は大に歪むものなり
-小さい歪みは、あとには大きく歪むものである-
五輪書 -地の巻-





福岡史伝・南北朝・室町
 【多々良浜の戦い】(1336年)

戦いの起こった現在の多々良川
1335年12月後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、新田義貞を破り翌1月には一旦、京に入りますが、 北畠、新田、楠木軍に破れ、海路九州に落ち延びます。
そして翌月の2月20日頃に赤間関(下関)で少弐頼尚の出迎えを受けますが、この数日後、肥後の菊池武敏と阿蘇惟直が数千の軍を擁し大宰府に攻め込み、 少弐氏の有智山城を攻め落とし頼尚の父、少弐貞経を自害させます。やっとの事で九州にたどり着いた尊氏ですが、 そこにも南から敵の大軍が迫っていたのです。 九州に上陸した尊氏の軍は海路随行した手勢と少弐の兵約5百、合わせても1千に程遠い数であったと思われます。 いったん宗像大社の宗像氏範の館に身を寄せて、南朝側の豪族陣営に使者を送り「『建武の新政』で武家が没落すること」や 「陸路、数万の足利軍が九州に向っていること」、「光厳上皇と連携の件」といった事を多少は過大に触れて回ったと想像されます。 そして3月2日にはついに、多々良浜で菊池武敏と対決することになります。この時点で、南朝側の勢力は3万とも6万ともいわれています。 これに対し尊氏の軍は宗像氏範の兵と大宰府から落ちてきた少弐の敗残兵、豊後から駆けつけた大友氏泰(本人は京より尊氏に随行) の兵を合わせても3千、多くても6千程度ではなかったかと思われます。 対等に戦うには無理がある数でした。 しかし戦いが始まると、緒戦は菊池が優勢だったものの、南朝側に積極的に動かない豪族や、寝返る豪族が出たため、形勢は逆転し 勝敗を決しました。菊池武敏は三原城、猫尾城と後退しつつ肥後に撤退し、阿蘇惟直は佐賀方面(小城天山)まで退きましたが 千葉胤貞の軍勢に囲まれ自刃しました。
尊氏はこの勝利をきっかけに、九州武士団を糾合し東に向って攻め上り、3ヶ月後の6月には京都を奪還することになります。


「多々良浜の戦い」は上の写真の数百mほど上流(写真奥)で起こりました。右手が博多方面で菊池軍が布陣し、 写真には写っていませんが左手の小高い丘に尊氏の軍が陣取りました。
(2011.4.29)








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スポットライト人物伝


【小早川隆景(こばやかわたかかげ)】
(1533年~1597年)


毛利元就の三男で、戦国時代の「多々良浜の戦い」では大友氏の猛将・戸次鑑連(べっきあきつら)とも戦っています。 秀吉の九州平定後は北部九州を任せられ、博多の北方5㎞の多々良川河口に名島城を築きます。 その後、養子の小早川秀秋(秀吉の正妻・ねねの甥)に名島城を譲り、自らは広島三原に戻り余生を過ごします。 この人は思慮深く、行動には慎重な人だった様で、 年下の天才軍師・黒田官兵衛を「天才にありがちな、状.....[全文を表示]


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