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毛利氏の筑前侵攻(1557年~)【福岡史伝・戦国】
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種と五ヶ山(佐賀県鳥栖.....

岩屋城跡(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
この城を築城した大友家の有力武将、高橋鑑種(あきたね)は、1567年に主君大友宗麟に反旗を翻します。 その理由はよくわかってはいませんが、宗麟が鑑種の兄、一万田親実の夫人を奪うために親実を殺害したからではないかとの説があります。 大友宗麟にはこのような話が他にもあり、また配下の武将の.....

戦国時代(少弐氏から大友氏へそして「岩屋城の戦い」)【一夜漬け福岡史】
筑前で少弐氏の抵抗を封じ、肥前に追い詰めた大内義隆ですが、1551年には重臣の陶晴賢に滅ぼされ、 筑前には豊後の大友義鎮(宗麟)が勢力を伸ばします。 しかし、今度は陶晴賢を倒し大内氏の地盤を取り込んだ中国の雄・毛利元就が侵攻してきます。 これを大友宗麟は多々良浜で迎え撃ち対峙します.....

高橋紹運(1548年~1586年)【福岡人物伝】
反旗を翻した高橋鑑種(たかはしあきたね)が筑前を追われると、 大友宗麟は重臣の吉弘鑑理(よしひろあきこと)の次男を高橋家に送り込み岩屋城と宝満城を守らせます。 これが後の高橋紹運です。島津氏の筑前侵攻の際は、763名の将兵と共に岩屋城に篭もり、数万の敵を相手に半月程持ちこたえますが、 遂に力尽き玉砕.....

高橋鑑種(1529年~1579年)【福岡人物伝】
一萬田氏の出で大友宗麟の有力武将。筑前・高橋家に養子として入り宝満城を任され、支城の岩屋城を築きます。 1567年、筑前侵攻を目指す毛利元就の調略により反旗を翻します。 しかし後方を撹乱された元就が中国へ撤退すると、孤立し筑前を追われることになります。 この謀反の理由は宗麟が鑑種の実家・一万田家を.....

毛利元就(1497年~1571年)【福岡人物伝】
主家・大内氏を倒した陶晴賢(すえはるかた)を「厳島の戦い」で破り、大内氏の地盤を手にすると次に筑前へ進出し大友宗麟と対立します。 元就は宗麟に父を殺された秋月種実に兵を与え秋月に帰還させた上、抵抗させ、 次に大友氏の有力武将・高橋鑑種(たかはしあきたね)を調略し謀反を起させます。 しかし大友宗麟の支.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2020.10.14

【記想録】勝龍寺城攻め

2020.10.11

【記想録】本能寺の変を報せた男

2020.9.27

懐良親王終焉之地を追加しました

2020.9.26

男装の漢詩人・原采蘋を追加しました

2020.9.6

名所旧跡に水城西門跡を追加しました

2020.9.4

名所旧跡に小水城跡を追加しました

2020.9.3

マイナーチェンジを行いました

2020.9.2

筑後みやまの平家伝説を追加しました

2020.8.10

船迫窯跡を追加しました

2020.8.7

朝倉の三連水車を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
煙とともに灰(ハイ)さようなら
-煙草好きであった一九の辞世の句-
十返舎一九





意外な人物伝
 【明史・秀吉伝】(1592年)-中国から見た豊臣秀吉像-

神屋宗湛屋敷跡「豊国神社」
中国の清の時代に書かれた「明史」には豊臣秀吉の事が描写されていますが、概要は次の通りです。

日本国王の下に関白の信長という者がいた。信長はある日、鷹狩りに出かけたが、その時、木の下に寝転んでいた男が突然飛び起きて信長に猛進してきた。この男を捕らえて何事か問い詰めると、男が言うには「私は平秀吉という者で、薩摩人の奴隷である」と。体は丈夫ですばしっこく、その上に口先が達った。 信長はこれを面白がり、馬廻りの役に付け、「木下」と名を与えた。信長のためによく働き、後に二十余州を奪い大将となった。
信長は罪を犯した参謀の阿奇支(安芸・毛利氏と明智光秀を混同?)を秀吉に討たせるが、その信長自身が部下の明智に討たれてしまった。 変を聞いた秀吉は阿奇支を滅ぼした勢いで、取って返し明智を誅滅し、名を響かせた。そして1586年(1585年?)、信長の3人の子を廃し、自らが関白となった。
その後、秀吉は諸将の兵を引き連れ明を攻めようとしたが、その時、子供が死んで、兄弟もなかった(「自国を守らせる身内がいなかった」の意?)。 また、豊後の将(大友義統?)の妻を奪い妾とした。 諸将は秀吉の暴虐を怨み「この戦いの目的は明を攻めることではなく、我々の力を削ぐ事に違いない」と言った。 そして諸将の心もバラバラでまとまりがなかった。この様な事情で秀吉は自ら攻めて来ることはなかった。

以降にはその後の「朝鮮の役」の概要が載せられ、戦いの途中にして秀吉が死んだため倭の諸将は各々自国へ引き上げて行き、やっとゆっくり眠れる様になったと記されています。
ところで、この「明史」に記載される内容が、戦役の当時に日本から伝わった情報なのか、それとも江戸時代に書かれた創作を含む伝記が伝わったものなのか、興味深いところです。 もし前者であるならば、日本でも知られていない小さな真実がこの記事の中に埋もれているのかもしれません。

-参考・引用「倭国伝」(藤堂明保氏、竹田晃氏、影山輝國氏/講談社学術文庫)-








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スポットライト人物伝


【貝原東軒(かいばらとうけん)】
(1651年~1713年)


秋月藩士の娘で益軒の妻女。1668年に数え年18歳で39歳の益軒と結婚します。書・和歌の他、箏(そう・琴に似た楽器)や胡琴(こきん・中国から伝わった弦楽器)などの楽器にも通じていました。益軒の著作編纂を陰から助け、「女大学」を記述したのは東軒ではないかといった説もあります。益軒が没する前年に63歳で亡くなっています。


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