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漢委奴国王印の鈕は駱駝?(金印の取っ手は蛇ではなかった)【意外な話】
金印「漢委奴国王」の鈕(ちゅう・印のつまみの部分)は駱駝(らくだ)を蛇に改造したものではないかという説があるようです。言われてみれば蛇というよりは駱駝に近い様な気がしないでもありません。 中国の各王朝は、地方を治める王族や臣下、豪族部族に印綬を下しますが、このとき相手によって鈕の種類を選んで.....

志賀島と海の中道(2019.10.12)【余談】
福岡の志賀島は砂州で九州本土とつながる陸繋島(りくけいとう)になります。そして志賀島と九州本土をつなぐ砂州が「海の中道」と呼ばれています。写真は「海の中道」から志賀島方向を撮影したもので、後方が九州本土の西戸崎という位置関係になります。 志賀島は「漢委奴国王印」が発見されたことで有名で、この金.....

豊前、筑前、筑後について(2018年12月31日)【余談】
現在の福岡県は大まかに分けて北部と南部の二つの地域に分かれていて、同じ福岡県人でも言葉やイントネーション、文化が微妙に違います。これは佐賀県でも同様のようで、山に隔てられた北部の玄海灘側と南部の有明海側では文化がだいぶ違うと佐賀県人の方から聞いた事があります。このような事は九州以外の他県でもあるのか.....

歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

福岡市博物館「滇王之印」複製品(2016年11月13日)【余談】
福岡市博物館には、「漢委奴国王」印と同じ蛇鈕(蛇を象った取っ手)を持つ金印「滇王之印(てんおうのいん)」の複製が展示されています。 この金印は1957年に中国雲南省石塞山第6号墓で発見された金印で、次のような説明がされています。 [福岡市博物館の説明文] 1957年に中国雲南省石塞.....

大夫(西暦57年頃~)【福岡人物伝】
西暦57年、奴国王の命により後漢に派遣され金印を持ち帰った人物です。中国・南北朝時代の432年頃に記された「後漢書」には「倭の奴国、貢物を奉って朝貢す。使者は大夫と自称す。」とのみ記載されています。大夫とは人名ではなく役職の事の様で、派遣された人物の氏名は伝わっていないようです。.....

「漢委奴国王」の読み方は?(「倭」は「委」から生まれた新漢字?)【わかっていない事】
金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡市博物館のサイトにも「王朝名(漢)の次に民族名(倭)、そして部族名(奴)がくるので、漢ノ委ノ奴ノ国王という読み方が代表的な解釈です」といった事が記載されています。.....

金印はなぜ志賀島で…?その弐(大夫の思惑は?)【わかっていない事】
「金印はなぜ志賀島で発見された?」で金印が志賀島で発見された理由を「金印の刻印が奴国王にとって都合の良くないものだったため」と記述しましたが、抽象的な疑問には幾通りもの説があって良いと思いますので、もう一つの説を載せようと思います。(以下では内容を解かり易くするため「奴国」を「那国」と替えて記述しま.....

金印はなぜ志賀島で発見された?(奴国王の思惑は?)【わかっていない事】
江戸時代より金印には贋物説があるですが、その説の根拠の一つに奴国の中心地から遠く離れた志賀島から見つかった不自然さが挙げられています。確かに漢の皇帝より奴国王に送られた金印が、奴国の勢力範囲だったとはいえ、なぜ10㎞近くも離れた島から発見されたのか、誰もが不思議に思うのは自然なことなのかもしれません.....

金印発見(1784年)【福岡史伝・江戸】
福岡の志賀島は神奈川の江ノ島と同じ「陸繋島(りくけいとう)-砂州で本土とつながる島-」で夏になると大勢の海水浴客で賑わいます。 1784年、金印はこの島の南端、叶の崎で小作人の秀治と喜平によって田んぼの中から発見されます。 金印は甘棠館(かんとうかん、福岡藩藩校)の館長、亀井南冥の元.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

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はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

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【記想録】囲師必闕

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【記想録】松壽丸危うし

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【記想録】勝龍寺城攻め

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【記想録】本能寺の変を報せた男

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懐良親王終焉之地を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
少し心の歪みに付いて、後は大に歪むものなり
-小さい歪みは、あとには大きく歪むものである-
五輪書 -地の巻-





意外な人物伝
 【「刀伊の海賊」を撃退した男】(1019年)-暴れん坊中納言・藤原隆家-

「東(あづま)男に京女」なんて言葉がありますが粗野粗暴のイメージは東男だけの特権ではないようで、意外なことに平安時代の京男にも結構な豪傑がいたようです。
その人の名を藤原隆家といいます。父親は朝廷№1の実力者、姉は天皇の中宮(第一婦人)という名門ゆえに、十代半ばにはやりたい放題を繰り返します。たとえば花山法皇との確執からひと悶着起こし、とうとう最後には法皇の袖を矢で射抜いてしまいます。 若気の至りとはいえ相手は前天皇ですのでただでは済まされず、出雲に配流の身となります(長徳の変、996年)。この乱暴狼藉、もし尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる幕末ならば大変な事になっていたかったかもしれませんが、この頃は藤原氏全盛期の貴族の時代、翌年には許され京都に戻ることができました。

ただこの人は粗野粗暴だけの人物ではなく、洒落もわかる豪放磊落の人だったようで清少納言の「枕草子」にもその人柄が描かれています。
ある日、清少納言の仕える中宮定子(ちゅうぐうていし、一条天皇の后で隆家の実姉)のところに隆家がやって来て「世にも珍しい扇の骨が手に入りましたので姉上に献上したく参りましたが、世にふたつと無い扇の骨なので今のところ、その骨に合う紙が見つからないのです。」と残念がります。これを傍らから聞いていた清少納言が「そんなに珍しいのならば、それは扇の骨ではなくクラゲの骨ではないのですか?」と冗談をいうと、隆家は「その洒落は私が言ったことにしよう!」と言って大笑いしたという内容なのですが、今で言うなら、さんま師匠の言葉を借りて「そのネタ、モロとこ」もしくは「それオモロっ、メモっとこ」といったところでしょうか。

ところで京都に戻った隆家は、父に取って代わって朝廷の実力者となった叔父との確執に嫌気が差し、三十代半ばの頃に九州大宰府へ大宰権帥(だざいごんのそつ、大宰府長官)として赴任します。 そしてその5年後の1019年、突然「刀伊(女真族)」の海賊が博多湾に現れ早良や能古島を襲い、略奪を繰り返します。大宰府長官の隆家は「ワシの出番や!」とばかりに兵をかき集め、箱崎に上陸し暴れまわる刀伊の海賊を急襲、奮戦し撃退する活躍をしたといわれています。








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スポットライト人物伝


【野村望東尼(のむらもとに)】
(1806年~1867年)


幕末の混乱期に、僧・月照や高杉晋作を自邸に匿います。乙丑の獄(いっちゅうのごく)では糸島半島の西約4キロの「姫島」に流されますが、 高杉晋作の意を受けた福岡脱藩の志士の手で「姫島」を脱出し下関へ逃れます。


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