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検索の結果 10件の記事が見つかりました


豊前、筑前、筑後について(2018年12月31日)【余談】
現在の福岡県は大まかに分けて北部と南部の二つの地域に分かれていて、同じ福岡県人でも言葉やイントネーション、文化が微妙に違います。これは佐賀県でも同様のようで、山に隔てられた北部の玄海灘側と南部の有明海側では文化がだいぶ違うと佐賀県人の方から聞いた事があります。このような事は九州以外の他県でもあるのか.....

佐伯常人(?~?)【福岡人物伝】
奈良時代中頃の武人で740年の「藤原広嗣の乱」を平定するために派遣された人物です。「板櫃川の戦い」では川を挟んでの藤原広嗣との論戦で広嗣に大儀がないことを指摘し、広嗣に兵を引かせています。.....

荒生田神社(北九州市八幡東区)【名所旧跡・北九州地区】
738年、時は奈良時代中期、大宰府に左遷された藤原広嗣はその2年後、政権中枢にある玄昉と吉備真備を弾劾するため兵を挙げ、板櫃川(いたびつがわ・北九州市八幡東区)で官軍と対峙しますが、官軍の将・佐伯常人(さえきつねひと)との論戦で大義がないことを指摘されると兵を引き、西へ敗走することになります.....

都府楼跡-大宰府政庁跡-(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
大宰府政庁の歴史 大宰府政庁は663年、那の津にあった官家をこの地に移したのが始まりです。 700年代の前半には大伴旅人、山上憶良などの万葉の歌人が赴任し、数多い歌が詠まれています。 738年には藤原広嗣が反藤原氏の橘諸兄によって大宰少弐に左遷され、2年後の74.....

観世音寺(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
661年7月、女帝斉明天皇は百済救援のため滞在していた朝倉橘広庭宮で突然崩御します。中大兄皇子はこの母の供養ため大野山の麓に寺院創建の命を出しました。これが観世音寺です。 その2年後「白村江の戦い」に敗れ、防衛のため那の津の「官家」を内陸部に移すことになりますが、その移設の先がこの観世音寺.....

奈良時代の権力闘争(716年)【福岡史伝・奈良】
奈良時代というと個人的には ほのぼのとしたイメージが強いのですが、かって文豪が書いた「兎角にこの世は住みにくい」という言葉の如く、この時代も他の時代を凌ぐ熾烈な権力闘争が繰り広げられていました。 729年、時の実力者の長屋王が邸宅を朝廷の軍勢に囲まれ自害します(長屋王の変)。これは藤原四兄.....

藤原広嗣の乱(740年)【福岡史伝・奈良】
天然痘の流行で当時の有力者、藤原四兄弟(藤原不比等の息子たちで藤原鎌足の孫にあたる)が立て続けに没すると、 反藤原氏の橘諸兄(たちばなのもろえ)が権力を握ります。 藤原四兄弟の三男宇合(うまかい)の息子、藤原広嗣(ひろつぐ)は、 藤原氏の勢力を盛り返そうとしますが、反藤原勢力の.....

奈良時代(権力闘争と鑑真の来日)【一夜漬け福岡史】
奈良時代には大和政権内で、藤原氏と反藤原氏の間で派閥間対立が起こります。 737年、天然痘で当時の有力者の藤原四兄弟(藤原鎌足の孫たち)が次々に死去すると、橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を握り、唐留学僧・玄昉(げんぼう)や唐留学生・吉備真備(きびのまきび)を抜擢し、脱・藤原氏の体勢を整えます。 .....

「濡れ衣」の語源は博多にあり(悲しい話です)【福岡悲話】
「藤原広嗣の乱」の前後の事だと思われますが、都より佐野近世(さのちかよ)という人が奥方と娘を伴い筑前の守として赴任して来ます。それからしばらくして奥方は亡くなり近世は地元の女性と再婚します。ところがこの女性、先妻の娘との関係が上手くいかなかったのか、 娘を亡き者にしようと策を巡らします。 そして.....

藤原広嗣(?~740年)【福岡人物伝】
藤原広嗣は藤原鎌足の曾孫に当たります。 当時の朝廷内で有力者だった父親や伯叔父たち(藤原四兄弟)が天然痘で次々に死去すると脱藤原政権を目指す橘諸兄が台頭します。 諸兄は唐留学の経験を持つ玄昉や吉備真備を抜擢しますが、逆に藤原氏の中心人物となった広嗣は大宰府に左遷されます。 これに憤慨した広嗣は大宰府.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2021.4.19

「原鶴温泉の歴史」を追加しました

2021.4.18

「最後の仇討」を追加しました

2021.4.15

「井上伝の胸像」を追加しました

2021.4.11

「糸島の平家伝説」を追加しました

2021.4.4

「蜷城の由来」を追加しました

2021.3.30

羽白熊鷲の碑を追加しました

2021.3.29

臼井六郎の叔父・八坂甚八を追加

2021.3.28

吉塚の由来を追加しました

2021.3.11

【記想録】長生きの薬なし

2021.2.27

野上一閑と三奈木弥平次の写真を変更

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
天下の事我が力になし難きことは唯天に任せおくべし その心を苦しむは愚なり
養生訓





福岡史伝・幕末・維新
 【五卿の大宰府入り】(1865年)

赤間宿 五卿西遷之遺跡
会津と薩摩の軍が1864年「禁門の変」で長州軍を破ると、幕府は長州征討の勅命を受け兵15万を広島に集結させます。 これに長州藩は恭順の意を表し、三家老を切腹させ五卿を他藩に送るという条件に従いますが、この五卿を引き受けたのが福岡藩です。 藩では五卿を迎えるため幽閉中の勤皇家・月形洗蔵の罪を赦し、早川養敬と共に五卿を迎えるため下関まで向かわせます。 二人に大宰府入りを説得された五卿は承諾し筑前に向かいますが、福岡藩の真意を測りかねたためか、 途中の赤間宿(筑前)に一月ほど滞在します。この間、薩摩、長州、土佐、筑前勤皇党の志士たちが慌しく面談していますが、 これは五卿の安全の保障や警護について協議していたものと思われます。そして1865年2月13日に五卿は無事大宰府の延寿王院に入ります。

(2011.6.4)








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スポットライト人物伝


【佐伯常人(さえきつねひと)】
(?~?)


奈良時代中頃の武人で740年の「藤原広嗣の乱」を平定するために派遣された人物です。「板櫃川の戦い」では川を挟んでの藤原広嗣との論戦で広嗣に大儀がないことを指摘し、広嗣に兵を引かせています。


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