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水田天満宮(筑後市水田)【名所旧跡・筑後地区南部】
筑後市にある水田天満宮は鎌倉時代に菅原道真公を祀り創建された神社になります。幕末の志士・清川八郎は「九州第二天満宮なり」と自著に記述していることが水田天満宮のページに記載されています。 この地は、筑後の志士・真木和泉が10年ほど蟄居したところで、現在も神社の南西100mほどのところに山.....

真木神社(水天宮境内)【名所旧跡・久留米】
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真木和泉史跡(水天宮境内)【名所旧跡・久留米】
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水天宮(久留米市京町)【名所旧跡・久留米】
水天宮の起源は高倉平中宮(徳子-平清盛の娘-)に仕えた按察使局(あぜちのつぼね)伊勢が「壇ノ浦の戦い」後、筑後川の辺の鷺野ヶ原(さぎのがはら)に逃れて安徳天皇、高倉平中宮、二位の尼(時子-平清盛の妻-)を祀ったものといわれています。 鷺野ヶ原で伊勢は、剃髪し千代と改め、加持祈祷などを行い里人に.....

真木和泉-禁門の変-(1864年)【福岡史伝・幕末・維新】
1863年、8月18日の政変で会津・薩摩の両藩に追われた長州藩は京都を去りますが、長州藩士と共に攘夷活動を行っていた真木和泉も七卿の護衛をし長州へ落ち延びます(七卿落ち)。翌年7月に長州藩は兵を挙げ再び京都へ向いますが、真木和泉も九州を中心とする攘夷志士を率いこの軍に加わります。京都市街では各地で火.....

平野國臣の倒幕活動(1858~1864年)【福岡史伝・幕末・維新】
平野國臣が歴史の表舞台に登場するのは、1858年の「安政の大獄」で幕府に追われる僧・月照の警護役で薩摩藩まで付き添った時だと思われます。結局、薩摩藩は月照を受け入れず、西郷隆盛は月照と共に錦江湾へ入水します。西郷は助けられ月照は没しますが平野國臣はこの船に同船していたといわれています。 それから約.....

幕末・明治(勤皇の志士たちと「秋月の乱」)【一夜漬け福岡史】
幕末期には、真木和泉や平野國臣などの勤皇の志士が登場します。二人は1862年4月、薩摩藩の「寺田屋事件」に関わり捕らえられ、 それぞれ久留米藩、福岡藩へ送還されますが、一年後には許され再び志士活動を開始し京に上ります。 しかし京都では1863年8月に突然政変が起こり、朝廷に強い影響力のあ.....

「平野國臣紙撚文書」とは?(筆がなけば紙で書く)【Fアイテム】
福岡市博物館の紙撚文書「囹圄(れいぎょ)和歌集」 平野國臣は西郷隆盛、真木和泉の他、「池田屋事変」に斃れた宮部鼎蔵、新選組の元をつくった策謀の士、清川八郎、当代随一の開明家、佐久間象山を暗殺した過激攘夷の志士、川上彦斎などとも交わりをもち、当時も名の知れた討幕の志士でした。 .....

「新選組始末記」について(2014年8月27日)【余談】
このサイトでも真木和泉、平野國臣、篠原泰之進の項で参照している「新選組始末記」ですが、 残念ながらこの書は史家や歴史作家より創作の部分が余りにも多過ぎるとの指摘があります。 著者の子母沢寛氏自身もその「あとがき」で次のようなことを書いています。 「幕末史の権威、尾佐竹猛、井.....

真木和泉(1813年~1864年)【福岡人物伝】
久留米藩の尊皇攘夷の志士で攘夷派の公卿に強い影響力を持ちますが、 「八月十八日の政変」で長州藩が京都を追われると長州派の七卿に下関まで同行します(「七卿落ち」)。 そして翌年には長州軍の一部隊として「禁門の変」に参戦しますが、 戦況が不利になると天王山に登り同士16名と共に自刃し志半ばで一生を終える.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2021.2.27

野上一閑と三奈木弥平次の写真を変更

2021.2.17

【記想録】秀吉の九州仕置き

2021.2.14

【記想録】貝原東軒夫人誕生地の碑

2021.2.8

望東尼の姫島脱出の写真を変更

2021.1.26

【記想録】後藤又兵衛の馬取り逐電す

2021.1.25

【記想録】肥後国衆一揆

2021.1.10

【記想録】島津義久降伏す

2021.1.5

親魏倭王印はどこにある?を追加

2021.1.4

金印の「委」は「倭」の略字?を追加

2021.1.2

「漢委奴国王」の読み方は?に加筆

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
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伝習録





名所旧跡・京築
 【おこしかけ】-豊前市四郎丸-


「おこしかけ」の由来

JR日豊線豊前松江駅の東南方に細長い台地があり、そこは「おこしかけ」の名で呼ばれている。
 往古、神功皇后(じんぐうこうごう)が豊前路巡幸の折に、その地にあった石に腰を下ろしてしばしの休息をとったので、それ以来「おこしかけ」の地名がついたのだと言われる。眼下に豊前海を一望できる風光明媚な場所である。
 神功皇后について語り伝えられるところによれば、四世紀の終わり頃、熊襲(くまそ)との戦いのさなかに夫の仲哀天皇が亡くなり、皇后は応神天皇を身ごもったまま、武内宿禰(たけのうちのすくね)と計って朝鮮半島は新羅(しらぎ)へ出兵したという。また帰国後は、応神天皇即位までの六十九年間摂政をつとめたとされる。
 神功皇后は宇佐神宮の祭神である。大きな古墳の上に建つ宇佐神宮は三つの神殿が横に並んで本殿を形成しているが、神功皇后はその第三御殿に祀る(まつ)られている。
 奈良時代以降、朝廷の宇佐八幡に対する崇敬はすこぶる篤(あつ)く、天皇の即位や国家の変事が生じた際には、奉弊(ほうへい)あるいは神意をうかがうために勅使(ちょくし)がしばしぼ宇佐へ派遣された。そして、松江の海岸線から四郎丸、田渕をへて宇佐へと向かう道筋は、その宇佐使が通る勅使街道にあたった。それゆえ、豊前の地には、大富神社の「勅使井」をはじめとして宇佐八幡にまつわる様々な歴史か刻まれ、「拝みの松」の和気清麻呂伝説や「おこしかけ」の神功皇后伝説など多くの伝説が今に語り継がれることになったのである。

豊前市教育委員会

国道10号線沿いの「道の駅おこしかけ」に置かれている案内板より








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スポットライト人物伝


【小早川秀秋(こばやかわひであき)】
(1582年~1602年)


豊臣秀吉の正妻ねねの甥にあたり、義父・小早川隆景の隠居に伴い入れ替わりで筑前の名島城に入ります。 「関ヶ原の戦い」では西軍から東軍へ寝返り、勝敗に大きく影響を与えたといわています。 戦後は加増され岡山に移りますが、「裏切り」の汚名を拭いきれず家臣とともに苦悩の日々を送ったと想像されます。 そして二年後には若くして死去します。 この秀秋の「関ヶ原」での行動には過去の出来事と戦いに至るまでの流れより同.....[全文を表示]


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