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男装の漢詩人・原采蘋(酒豪の女流詩人)【意外な人物伝】
福岡では幕末維新期に男装の女医・高場乱が登場しますが、一世代前の1798年にもう一人の男装の漢詩人・原采蘋(はらさいひん)が秋月に生まれています。 父親は甘棠館で亀井南冥に学んだ原古処で、秋月藩の儒学者。兄と弟がいましたが、病弱だったため古処は采蘋に期待をかけ、中国地方や九州各地への遊歴に伴います.....

漢委奴国王印の鈕は駱駝?(金印の取っ手は蛇ではなかった)【意外な話】
金印「漢委奴国王」の鈕(ちゅう・印のつまみの部分)は駱駝(らくだ)を蛇に改造したものではないかという説があるようです。言われてみれば蛇というよりは駱駝に近い様な気がしないでもありません。 中国の各王朝は、地方を治める王族や臣下、豪族部族に印綬を下しますが、このとき相手によって鈕の種類を選んで.....

若宮八幡宮狛犬(うきは市)【名所旧跡・朝倉・うきは】
山鹿氏は芦屋釜で有名な芦屋山鹿を出とする博多の鋳物師。太宰府天満宮の麒麟像も山鹿氏によって制作されたといわれます。撰文を書いた広瀬淡窓は福岡の亀井南冥に学び、日田に「咸宜園(かんぎえん)」を創設した儒学者になります。 .....

志賀島と海の中道(2019.10.12)【余談】
福岡の志賀島は砂州で九州本土とつながる陸繋島(りくけいとう)になります。そして志賀島と九州本土をつなぐ砂州が「海の中道」と呼ばれています。写真は「海の中道」から志賀島方向を撮影したもので、後方が九州本土の西戸崎という位置関係になります。 志賀島は「漢委奴国王印」が発見されたことで有名で、この金.....

豊前、筑前、筑後について(2018年12月31日)【余談】
現在の福岡県は大まかに分けて北部と南部の二つの地域に分かれていて、同じ福岡県人でも言葉やイントネーション、文化が微妙に違います。これは佐賀県でも同様のようで、山に隔てられた北部の玄海灘側と南部の有明海側では文化がだいぶ違うと佐賀県人の方から聞いた事があります。このような事は九州以外の他県でもあるのか.....

歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

福岡市博物館「滇王之印」複製品(2016年11月13日)【余談】
福岡市博物館には、「漢委奴国王」印と同じ蛇鈕(蛇を象った取っ手)を持つ金印「滇王之印(てんおうのいん)」の複製が展示されています。 この金印は1957年に中国雲南省石塞山第6号墓で発見された金印で、次のような説明がされています。 [福岡市博物館の説明文] 1957年に中国雲南省石塞.....

大夫(西暦57年頃~)【福岡人物伝】
西暦57年、奴国王の命により後漢に派遣され金印を持ち帰った人物です。中国・南北朝時代の432年頃に記された「後漢書」には「倭の奴国、貢物を奉って朝貢す。使者は大夫と自称す。」とのみ記載されています。大夫とは人名ではなく役職の事の様で、派遣された人物の氏名は伝わっていないようです。.....

寛政異学の禁(1790年)【福岡史伝・江戸】
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「漢委奴国王」の読み方は?(「倭」は「委」から生まれた新漢字?)【わかっていない事】
金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡市博物館のサイトにも「王朝名(漢)の次に民族名(倭)、そして部族名(奴)がくるので、漢ノ委ノ奴ノ国王という読み方が代表的な解釈です」といった事が記載されています。.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2020.11.25

【記想録】秀吉の手紙

2020.11.24

【記想録】孝高、信長面会

2020.11.23

【記想録】毛利と宇喜多の旗

2020.11.22

【記想録】松壽丸危うし

2020.11.4

【記想録】異説 賤ヶ岳の七本槍

2020.11.1

【記想録】赤松則房の事

2020.10.14

【記想録】勝龍寺城攻め

2020.10.11

【記想録】本能寺の変を報せた男

2020.9.27

懐良親王終焉之地を追加しました

2020.9.26

男装の漢詩人・原采蘋を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
これを望めば木鶏に似たり
-木で彫った鶏のように何事にも動じない様子-
荘子





福岡史伝・南北朝・室町
 【観応の擾乱-筑前-】(1351年)

1349年、足利尊氏の右腕の高師直と、尊氏の弟・直義との確執で足利幕府は二派に割れます。 長門探題を努める尊氏の庶子・直冬は叔父(義父)の直義に援軍するため軍を率い上京しようとしますが、 実の父・尊氏より討伐命令が出たため、海路で肥後に逃れます。 そして1350年に筑前の少弐氏に迎えられ、翌年に九州探題の一色氏(尊氏派)の月隈城を攻めます(月隈・金隈の戦い)。 その戦いで城は落ちませんでしたが、その後は直冬と少弐氏が戦いを有利に進めます。 畿内では京を逃れた直義が勢力を挽回すると、翌年に尊氏が和解を申し入れ、高師直は直義派に斬られます。 これで動乱は一旦収束し、直冬は九州探題の職に就きます。しかし、1352年には直義と尊氏の立場が逆転し、直義は鎌倉に逃れそこで没します。 この直義の死をきっかけに二派に別れて戦っていた九州の武家方は、戦う名目を失くし、流れは尊氏派の一色氏に移ります。 また一色氏は宮方とも協調路線をとっていたため、直冬は九州を去り長門へ戻り、少弐頼尚は旗頭を失うことになります。
(2014.11.9)








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スポットライト人物伝


【阿蘇惟直(あそこれなお)】
(?~1336年)


足利尊氏が九州に上陸すると菊池武敏と共に筑前へ攻め上り、多々良浜で尊氏軍と激突します。 しかし戦いに敗れたため山越えで佐賀方面へ撤退を試みますが、小城の千葉氏の攻撃を受け天山付近で自害しました。 のちに妻女がその地を訪れ惟直の後を追ったという話が残っています。


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