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検索の結果 24件の記事が見つかりました


親魏倭王印はどこにある?(もう一つの金印が発見されれば!!)【わかっていない事】
西暦238年、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した倭王の卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号を与え金印を授けます。中国の史書では倭国が受けた金印はこの「親魏倭王」印と後漢の時代に送られた「漢委奴國王」印の二つだけになり、後者は江戸時代に現在の福岡県の志賀島で発見されています。そしてもし前者の「親魏倭王」印が発見.....

金印の「委」は「倭」の略字?(委字は倭字を略したる者と相見えん!?)【わかっていない事】
「委字は倭字を略したる者と相見えん」これは亀井南冥の金印鑑定書に書かれる言葉になります。『「漢委奴国王」印の「委」という文字は「倭」の人偏を略したものと思われる』といった意味になります。 金印の事が記載される後漢書には「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀(西暦57年 倭の奴国 貢を奉じて朝賀す)」と書.....

漢委奴国王印の鈕は駱駝?(金印の取っ手は蛇ではなかった)【意外な話】
金印「漢委奴国王」の鈕(ちゅう・印のつまみの部分)は駱駝(らくだ)を蛇に改造したものではないかという説があるようです。言われてみれば蛇というよりは駱駝に近い様な気がしないでもありません。 中国の各王朝は、地方を治める王族や臣下、豪族部族に印綬を下しますが、このとき相手によって鈕の種類を選んで.....

志賀島と海の中道(2019.10.12)【余談】
福岡の志賀島は砂州で九州本土とつながる陸繋島(りくけいとう)になります。そして志賀島と九州本土をつなぐ砂州が「海の中道」と呼ばれています。写真は「海の中道」から志賀島方向を撮影したもので、後方が九州本土の西戸崎という位置関係になります。 志賀島は「漢委奴国王印」が発見されたことで有名で、この金.....

豊前、筑前、筑後について(2018年12月31日)【余談】
現在の福岡県は大まかに分けて北部と南部の二つの地域に分かれていて、同じ福岡県人でも言葉やイントネーション、文化が微妙に違います。これは佐賀県でも同様のようで、山に隔てられた北部の玄海灘側と南部の有明海側では文化がだいぶ違うと佐賀県人の方から聞いた事があります。このような事は九州以外の他県でもあるのか.....

歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

福岡市博物館「滇王之印」複製品(2016年11月13日)【余談】
福岡市博物館には、「漢委奴国王」印と同じ蛇鈕(蛇を象った取っ手)を持つ金印「滇王之印(てんおうのいん)」の複製が展示されています。 この金印は1957年に中国雲南省石塞山第6号墓で発見された金印で、次のような説明がされています。 [福岡市博物館の説明文] 1957年に中国雲南省石塞.....

大夫(西暦57年頃~)【福岡人物伝】
西暦57年、奴国王の命により後漢に派遣され金印を持ち帰った人物です。中国・南北朝時代の432年頃に記された「後漢書」には「倭の奴国、貢物を奉って朝貢す。使者は大夫と自称す。」とのみ記載されています。大夫とは人名ではなく役職の事の様で、派遣された人物の氏名は伝わっていないようです。.....

寛政異学の禁(1790年)【福岡史伝・江戸】
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「漢委奴国王」の読み方は?(「倭」は「委」から生まれた新漢字?)【わかっていない事】
金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡市博物館のサイトにも「王朝名(漢)の次に民族名(倭)、そして部族名(奴)がくるので、漢ノ委ノ奴ノ国王という読み方が代表的な解釈です」といった事が記載されていま.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2021.2.27

野上一閑と三奈木弥平次の写真を変更

2021.2.17

【記想録】秀吉の九州仕置き

2021.2.14

【記想録】貝原東軒夫人誕生地の碑

2021.2.8

望東尼の姫島脱出の写真を変更

2021.1.26

【記想録】後藤又兵衛の馬取り逐電す

2021.1.25

【記想録】肥後国衆一揆

2021.1.10

【記想録】島津義久降伏す

2021.1.5

親魏倭王印はどこにある?を追加

2021.1.4

金印の「委」は「倭」の略字?を追加

2021.1.2

「漢委奴国王」の読み方は?に加筆

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
少し心の歪みに付いて、後は大に歪むものなり
-小さい歪みは、あとには大きく歪むものである-
五輪書 -地の巻-





福岡史伝・奈良
 【神託事件-豊前の伝説-】(769年)

妙見宮和気清麻呂公像
宇佐八幡宮神託事件は「続日本記(しょくにほんぎ)」に書かれている出来事です。
その記事は769年、称徳天皇の怒りの詔(みことのり)から唐突に始まります。
「臣下というものは、君主に従い清く貞しい明るい心をもって助け守り、無礼な面持ちをせず、よこしまで偽ったり、へつらい曲がった心を持たず仕えるものである。しかし、(和気)清麻呂とその姉・法均は偽りの話を作り大神の言葉として上奏した。そこで国法によって両人を退ける事とする。またこの件で、清麻呂と事を謀った者がいるのは判っているが、今回は慈しみ哀れんで免罪とする。しかし、このような行為が重なった者は国法に従って処罰する。心を改め貞しい心を持って仕えるようにせよ。」

神託事件の経緯は次の通りです。
764年に時の権力者・藤原仲麻呂が失脚し斬られると、その2年後に弓削道鏡は称徳天皇の後ろ盾もあって法王にまで登り詰めます。そして768年には弟の弓削浄人(ゆげきよひと)が大宰帥(だざいのそち)に就き、その後の大宰府の主神(かんづかさ)・習宜阿曾麻呂(すげあそまろ)が宇佐八幡宮の神のお告げと偽って「道鏡を皇位に即(つ)ければ天下は太平になるだろう」と上奏します。道鏡はこれに気を良くし、道鏡に傾倒する称徳天皇も道鏡を皇位に就けようと和気清麻呂を玉座に招き、姉の法均に代わって宇佐八幡宮へ行き神託を受けて来る様に命令します。
清麻呂の出発に際し、道鏡は清麻呂に吉報をもたらせば官職官階を重く上げようと持ちかけますが、その後、宇佐八幡宮で宣託を受けた清麻呂は帰京し、宣託のまま「皇位には皇統の人を立てよ。無道の人は早く払い除けよ」と上奏します。
この清麻呂の上奏の後に冒頭の称徳天皇の詔がつながるのです。

天皇の命で和気清麻呂は別部穢麻呂(わけべきたなまろ)と改名、法均の名は広虫売(ひろむしめ)に戻され、道鏡によってそれぞれ因幡(鳥取県東部)と備後(広島県東部)に配流されます。清麻呂には因幡に到着する前に再び詔が出され大隅(鹿児島県東部)に配流される事になります。
「日本後記」では、大隅に向かう清麻呂に害を及ぼそうと道鏡は追手を差し向けたとされます。しかし豊前に着いた清麻呂の前に多くの猪が現れ、追手から守るように清麻呂を背に乗せて宇佐神宮へ送り届けます。その後、清麻呂は豊前・竹和山麓にしばらく滞在しますが、山麓の霊泉に足を浸すと足の傷が平癒し、以後この山を足立山と呼ぶようになったという伝説を残すことになります。

称徳天皇は冒頭の詔の数日後に「目にかなった人を新しく立てることは、心のままにせよ」と勅をし道鏡を皇位に就けることを諦め、翌年8月には崩御します。その同月に道鏡は下野国薬師寺に左遷され、弟の弓削浄人とその息子たちも土佐国に配流されます。そして9月には清麻呂と法均は配流先より都に戻ることになりました。


「続日本記」には大宰府で偽りの上奏をした習宜阿曾麻呂のその後は書かれていません。想像になりますがこの書で見る限り、阿曾麻呂の上奏を画したのは、直前に大宰帥に就いた弓削浄人ではないかと考えられ、道鏡の関与はなかったのかもしれません。
その道鏡は2年後に薬師寺で没しますが、権力を一時的に掴むも自身にも見えない時の流れに翻弄された人生だったのかもしれません。そしてその9年後には弟・浄人とその息子たちが郷里の河内国に戻ることを許されています。

参考引用「続日本記(中)」(宇治谷孟/講談社学術文庫)
(2018.5.7)








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スポットライト人物伝


【野村望東尼(のむらもとに)】
(1806年~1867年)


幕末の混乱期に、僧・月照や高杉晋作を自邸に匿います。乙丑の獄(いっちゅうのごく)では糸島半島の西約4キロの「姫島」に流されますが、 高杉晋作の意を受けた福岡脱藩の志士の手で「姫島」を脱出し下関へ逃れます。


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