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検索の結果 22件の記事が見つかりました


漢委奴国王印の鈕は駱駝?(金印の取っ手は蛇ではなかった)【意外な話】
金印「漢委奴国王」の鈕(ちゅう・印のつまみの部分)は駱駝(らくだ)を蛇に改造したものではないかという説があるようです。言われてみれば蛇というよりは駱駝に近い様な気がしないでもありません。 中国の各王朝は、地方を治める王族や臣下、豪族部族に印綬を下しますが、このとき相手によって鈕の種類を選んで.....

志賀島と海の中道(2019.10.12)【余談】
福岡の志賀島は砂州で九州本土とつながる陸繋島(りくけいとう)になります。そして志賀島と九州本土をつなぐ砂州が「海の中道」と呼ばれています。写真は「海の中道」から志賀島方向を撮影したもので、後方が九州本土の西戸崎という位置関係になります。 志賀島は「漢委奴国王印」が発見されたことで有名で、この金.....

豊前、筑前、筑後について(2018年12月31日)【余談】
現在の福岡県は大まかに分けて北部と南部の二つの地域に分かれていて、同じ福岡県人でも言葉やイントネーション、文化が微妙に違います。これは佐賀県でも同様のようで、山に隔てられた北部の玄海灘側と南部の有明海側では文化がだいぶ違うと佐賀県人の方から聞いた事があります。このような事は九州以外の他県でもあるのか.....

歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

福岡市博物館「滇王之印」複製品(2016年11月13日)【余談】
福岡市博物館には、「漢委奴国王」印と同じ蛇鈕(蛇を象った取っ手)を持つ金印「滇王之印(てんおうのいん)」の複製が展示されています。 この金印は1957年に中国雲南省石塞山第6号墓で発見された金印で、次のような説明がされています。 [福岡市博物館の説明文] 1957年に中国雲南省石塞.....

大夫(西暦57年頃~)【福岡人物伝】
西暦57年、奴国王の命により後漢に派遣され金印を持ち帰った人物です。中国・南北朝時代の432年頃に記された「後漢書」には「倭の奴国、貢物を奉って朝貢す。使者は大夫と自称す。」とのみ記載されています。大夫とは人名ではなく役職の事の様で、派遣された人物の氏名は伝わっていないようです。.....

寛政異学の禁(1790年)【福岡史伝・江戸】
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「漢委奴国王」の読み方は?(「倭」は「委」から生まれた新漢字?)【わかっていない事】
金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡市博物館のサイトにも「王朝名(漢)の次に民族名(倭)、そして部族名(奴)がくるので、漢ノ委ノ奴ノ国王という読み方が代表的な解釈です」といった事が記載されています。.....

金印はなぜ志賀島で…?その弐(大夫の思惑は?)【わかっていない事】
「金印はなぜ志賀島で発見された?」で金印が志賀島で発見された理由を「金印の刻印が奴国王にとって都合の良くないものだったため」と記述しましたが、抽象的な疑問には幾通りもの説があって良いと思いますので、もう一つの説を載せようと思います。(以下では内容を解かり易くするため「奴国」を「那国」と替えて記述しま.....

金印はなぜ志賀島で発見された?(奴国王の思惑は?)【わかっていない事】
江戸時代より金印には贋物説があるですが、その説の根拠の一つに奴国の中心地から遠く離れた志賀島から見つかった不自然さが挙げられています。確かに漢の皇帝より奴国王に送られた金印が、奴国の勢力範囲だったとはいえ、なぜ10㎞近くも離れた島から発見されたのか、誰もが不思議に思うのは自然なことなのかもしれません.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2020.9.6

名所旧跡に水城西門跡を追加しました

2020.9.4

名所旧跡に小水城跡を追加しました

2020.9.3

マイナーチェンジを行いました

2020.9.2

筑後みやまの平家伝説を追加しました

2020.8.10

船迫窯跡を追加しました

2020.8.7

朝倉の三連水車を追加しました

2020.8.6

漢委奴国王印の鈕は駱駝?

2020.8.5

宮本武蔵の碑を追加しました

2020.8.4

野村望東尼終焉の宅の碑を追加しました

2020.8.3

羽犬塚の由来を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
径路の窄(せま)き処は一歩を留めて人の行くに与えよ
菜根譚





意外な人物伝
 【自由の気風の「亀井塾」】(1762年)-昭陽先生と生徒たち-

「亀井南冥昭陽両先生墓所」の碑 中央区地行・「浄満寺」門前
「漢委奴国王」の金印を鑑定した父・亀井南冥(なんめい)の後を継ぎ、私塾「亀井塾」を起した昭陽先生はある日、近隣・若者組の神事用・幟(のぼり)の揮毫(きごう)を快く引き受けますが、数日後、そのお礼にと塾へは酒が届けられます。 先生はその日の授業が終わると、さっそく生徒たち(元服済み)と「一杯やるか」と酒宴を開きます。陽はまだ高く、時は梅雨の上がった夏の入り、渇いた咽に清酒がしみる。「一杯、一杯、また一杯」詩仙の心がよくわかる。 ほろ酔い気分になってきた生徒たちは、いつもお世話になっている昭陽先生へ次から次に酒を勧めます。 その酌は「長篠の戦い」の鉄砲三段撃ちの如し、先生もかわいい生徒の杯を拒めずにゴックゴク、お開きの頃には悪酔い状態になってしまいます。 調子に乗った生徒たち、今度は先生を置いて近くの浜辺に海水浴へと繰り出します。 赤裸で戯れたその後は、各々、着物も着ず褌(ふんどし)はたたんで頭に載せて村道を堂々と帰宅の途につきました。
翌日、この醜態を聞き知った昭陽先生。「亀井塾は自由の気風と言えども、やり過ぎはよろしからず」と生徒の代表五名を呼び出し誓約書を書かせます。
その一節、「日頃からお世話になっているからと先生に呑ませ過ぎ、嘔吐させるまでに至り誠に申し訳なく思っております。私たち生徒一同は先生の健康を一途に願っております。どうかご察しください」
昭陽先生その誓約書(詫び状?)を朱墨で添削し「君らの気持ちはよく解った」と一件落着となりましたが、その後、生徒たちの酒癖が改まったかどうかは記録に残っていないようです。

-参考・引用「福岡歴史探検①近世福岡」(福岡地方史研究会/海鳥社)-



亀井昭陽は江戸中期の高名な儒学者で「日本外史」の頼山陽と交流を持っています。 また藩校「甘棠館」の廃校後は、私塾「亀井塾」を開き、そこでは日田に「咸宜園」を開いた広瀬淡窓が学んでいます。
ここで取り上げたのは福岡地方研究会の「福岡歴史探検」という本に記載されている話です。 話の中に出てきた「誓約書」は昭陽の息女の嫁ぎ先に代々伝えられ現存しているということですが、おそらく昭陽先生は生徒の代表五名の内の一人に娘を嫁がせたものと想像されます。 また生徒たちが海水浴を楽しんだのは現在のヤフオク(福岡)ドームの南側辺りにあった浜辺だと思われます。








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スポットライト人物伝


【筑紫広門(ちくしひろかど)】
(1556~1623)


筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と共に肥前東部に追われ養父(佐賀県鳥栖市北部)辺りに居を移したのかもしれません。後に筑紫氏は大内氏に従い、大内氏の滅亡後は毛利氏に同盟し豊後の大友氏と戦います。

筑紫広門は父・惟門が大友氏に討たれたため筑紫氏を.....[全文を表示]



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