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野上一閑と三奈木弥平次(原鶴の一騎打ち)【意外な人物伝】
大友氏が島津氏に大敗を喫した耳川の戦いから3年、筑後平野では秋月氏や龍造寺氏が弱体化する大友配下の諸城に攻めかかります。これに大友宗麟は救援の軍を送りますが、この兵の中に野上入道一閑という豪傑がおりました。貝原益軒は「筑前国続風土記」巻之二十五 古城古戦場二 原鶴 の項で一閑入道の事を次の通り描写し.....

中山鹿之介の陣鐘?(国宝・西光寺の梵鐘)【Fアイテム】
明治30年(1897年)頃の事、早良内野の西光寺の檀家衆はお伊勢参りに出かけます。その帰途、大阪に泊まった一行が街中を散策中、一人の檀家が古物商の軒先に雨ざらしになった梵鐘に目を止めます。汚れた上に乳部(上部にある複数の突起)が3つも外れている鐘。「松江の金物店から引き取ったんやけど、高値でなかなか.....

筑紫広門(1556~1623)【福岡人物伝】
筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と共に肥前東部に追われ養父(佐賀県鳥栖市北部)辺りに居を移したのかもしれません。後に筑紫氏は大内氏に従い、大内氏の滅亡後は毛利氏に同.....

毛利氏の筑前侵攻(1557年~)【福岡史伝・戦国】
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種と五ヶ山(佐賀県鳥栖.....

名家衰退(1533年~)【福岡史伝・戦国】
南北朝時代が終わると、今川了俊は帰京の命が下され九州を去ります。代わって九州探題には足利家一門の渋川氏が任命されるのですが、探題と反りの合わない筑前守護の少弐氏は渋川氏と戦いこれを筑前より追います。しかしこの事が、大内氏の九州進出のきっかけとなります。 少弐氏は幕府の命を受け渋川氏を支援する大内氏.....

高橋と筑紫の和約(1586年)【福岡史伝・戦国】
大内氏が滅亡した後の「筑前騒乱」は、毛利氏の二回の筑前進行(1557年、1567年)及び、大友氏の耳川での大敗(1578年)を起因として三度起こっています。筑前南東部(朝倉市秋月)に城を置く秋月氏と肥前南東部(鳥栖市北部)に割拠する筑紫氏は、この三度の「筑前騒乱」全てにおいて大友氏と反目し戦いを挑ん.....

蒲池氏の滅亡(1581年)【福岡史伝・戦国】
「本能寺の変」が起こる一年前の事、筑後では古豪・蒲池氏が滅んでいます。この蒲池氏の滅亡を書くに当り、触れなければならないのが佐賀の龍造寺氏の事になります。 1534年、肥前で大内義隆の侵攻を辛うじて防戦する少弐資元は、「三津村(吉野ヶ里町三津)の戦い」で大内軍を撃退した配下の武将・龍造寺家兼の.....

耳川の戦い-筑前・筑後-(1578年)【福岡史伝・戦国】
大友方の多くの将兵が斃れた耳川 1584年には龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で島津軍に敗れ討死するも、翌年には頼りの立花道雪も病没し、大友氏は窮地に陥ります。島津勢は肥前、筑後の兵をも取り込み益々勢力を増し攻勢に出ます。これに抗す手立てを失くした豊後の大友宗麟は遂に大坂に出向き豊臣秀吉に.....

鷲ケ岳城の攻防(1579年)【福岡史伝・戦国】
1578年11月「耳川の戦い」で大敗を喫すると大友氏の筑前筑後の支配は大きく揺らぎ始め、秋月種実と筑紫広門は大友氏に対する敵対心を顕にします。 その翌年の10月、広門は龍造寺氏の将、大田兵衛(おおたひょうえ)の兵と共に、大友方の鷲ケ岳城を攻めるため南面里(なめり・那珂川町)に陣を敷きます。これを知.....

休松の戦い(1567年)【福岡史伝・戦国】
毛利氏は周防長門を平定し次に東の尼子氏を倒すと、大内氏の領した筑前を取り戻すため動き出します。 1567年8月、筑前では毛利氏の支援を受けて秋月種実が大友氏に反旗を翻します。 大友宗麟は戸次鑑連(べっきあきつら・後の立花道雪)、吉弘鑑理(よしひろあきなお・高橋紹運の実父)、臼杵鑑速(うすきあきす.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
両人対酌すれば山花開く 一杯一杯また一杯
-「山中に幽人と対酌す」-
李白





名所旧跡・大野城・宇美
 【大野城】-糟屋郡宇美町、大野城市、大宰府-




【特別史跡 大野城跡】

「今から約1300年前天智天皇二年(663年)百済救済のため朝鮮半島に出兵した日本軍は白村江の戦で唐・新羅軍に大敗した。翌年敵の侵攻にそなえて防人と烽(のろし)を置き水城を築きさらに665年には百済からの亡命貴族の指導によ大野城基肄城長門城(山口県)を築いた。 大野城は大野山全体を城とする雄大な構えの朝鮮式山城で山の稜線にそつて土塁をめぐらし谷には石垣を築きその内側に倉庫等の建物を設け大宰府が危急の場合逃げ込み長期戦籠城防戦できるしくみになつている。

概 要
土塁の総延長・・・8㎞
土塁の外周・・・6.5㎞
城   門・・・4ヶ所
石   垣・・・5ヶ所8㎞
建物・・・8ヶ所70棟㎞


特別史跡「大野城」 四王寺の案内板より

上の写真は、大野城内にある四王寺跡地です。周りには尾花、増長天建物群の礎石が残っています。場所は太宰府天満宮より車で10分ほどの北西方面の山中にあり、ちょうど太宰府市と宇美町の境界辺りになります。






【特別史跡 大野城跡 「百間石垣」】
「大野城の城壁は土を高く盛り上げた、土塁で囲んでいるが、起伏の激しい地形のため谷間は土塁でなく石を 積み上げたダムのような石塁とし、急傾斜部は石垣を作るなど工夫をこらしている。この「百間石垣」の名称は、 四王寺川の部分を石塁とし、それに続く山腹部を石垣とした城壁で、長さが180mほどであるあることから名付け られたものである。平均4mくらいの高さが残っており、川底部では石塁幅は9mほどである。外壁面の角度は75度前後である。
この川の中から今までに3個の礎石などが発見されており、川に近い場所に城門があったと考えられる。」

「百間石垣」の案内板より




【大野城宇美口(北口)城門礎石】
「この礎石は昭和四十八年に百間石垣の傍、四王寺川の川底から発見された大野城の宇美口城門礎石である。現在確認されている大野城の城門は宇美口、太宰府口、坂本口、水城口の四ヶ所であるが北向の城門は宇美口のみである。以前から重要地点と考えられていたところである。文献には門礎一個の記載があり、また昭和三十四年頃付近で発見されたといわれる門礎一個(現在宇美八幡宮蔵)があるが今回の礎石発見により宇美口の位置が明らかとなるであろう。ただしこの礎石は宇美八幡宮のものと形状が異なること、他の礎石が円柱用であるのに対し角柱用礎石であることなど、尚研究の余地を残している。」
福岡県四王寺県民の森

「城門礎石」の案内板より





【建物群跡についての案内板】
「ここには10棟の建物群の跡が残っている。これらは礎石が各建物の範囲内に碁盤目状に配置されており、床を人の背丈ほどに高くし、それを多数の柱で支える建物であった。このようなもので有名なのは奈良・東大寺の正倉院がある。 大野城でも倉庫として武器や食糧などの備蓄のために建築されたものであろう。
10棟の建物は、ほぼ南北方向に5棟が一列に並び他の5棟もそれぞれ計画的に配置されている。建物の大きさは梁行6.3m桁行10.5mで統一されている。」
特別史跡 大野城跡 尾花地区 四王寺の案内板より


「ここには大野城中央部のやや西方にあたる場所で、下方一帯には建物群の礎石がたくさん残っている。建物は14棟あり、すべて高床の倉庫で、ほぼ南北向に建物の長軸をそろえ計画的に配置されている。倉庫は梁行3間×桁行5間(6.3m×10.5m)の広さで、非常時のために武器や米などを備蓄したものである。」

特別史跡 大野城跡 八ツ波建物群 「県民の森」の案内板より

写真は尾花、増長天建物群を撮影したものです。




太宰府口城門

【太宰府口城門】

大野城とは
大野城は、今から約1300年前に、国土を防衛するために築 かれた砦です。山の尾根に土塁を巡らし谷を石塁で塞ぎ、 城壁を築いています。現存する古代山城の中では記録に見 える日本最古の城です。

太宰府口城門とは
大野城には4ヶ所の城門が知られています。南側(大宰府 側)には3ヶ所設けられており、そのうちの一つが太宰府 ロ城門です。発掘調査前には唐居敷(門扉の敷居・からいじき)の一部 が確認されていただけです。 この城門に接して、左手には 谷筋から進入してくる敵を拒むように築かれた石塁(水の 手口石塁)が、右手には焼米ヶ原に延びる土塁が築かれて います。この城門は大宰府政庁側に位置し、規模が最も大き いことから大野城の正門ではないかと考えられています。

城門の変遷
発掘調査の結果、城門建築や両袖石積みの変遷が明らかに なりました。城門は、最初に掘立柱(ほったてばしら)形式の建物が建てられ、 次に礎石形式へと大き<建て替えられています。また、礎 石形式の時には、規模はそのままに門柱の両袖を石積みで 塞ぐ改修が行われたことも判明しました。掘立柱形式の建 物規模は3×4間(9m四方)でしたが、礎石形式の建物 では1×1間(5.2m四方)とやや小さくなり、ます。 礎石形式の門は二階建て楼門形式が想定され、大野城の 堅固な守りと威厳が示されていたのでしょう。

               

平成11年3月31日 福岡県教育委員会

「大宰府口城門」の案内板より





大石垣

【大石垣】

大野城と大石垣
 大野城跡は白村江の戦(663)の後、大陸から の侵攻に備えて西日本各地に築かれた山城の一つ で、百済の亡命高官2名の戦略的技術のもと築城 されたことから、朝鮮式山城と呼ばれています。  尾根から少し下った所に土塁と石塁を巡らせ城 壁とし、要所に城門と水門を配置していました。  この場所は大石垣と呼ばれるように石のみで築 かれた長さ100mほどの城壁で、尾根の間にある 二筋の谷を跨ぎ構築されています。現状で谷部分 の石垣の高さは7mほどあります。

災害復旧事業主:太宰府市教育委員会
平成20年3月 解説板設置:福岡県教育委員会

     
「大石垣」の案内板より












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スポットライト人物伝


【佐伯連男(さえきのむらじおとこ)】
(?~?)


「壬申の乱(672年)」で大友皇子の意を受け筑紫に派遣され、筑紫率の栗隈王に援軍を出すよう命令した人物です。栗隈王がこれを拒否したため佐伯連男は栗隈王を斬ろうとしますが、護衛が栗隈王のそばから離れようとしなかったため果たせず筑紫を去りました。
想像になりますが、この人物は「乙巳の変(645年)」に関わった佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)の近親者と思われます。



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