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野村望東尼終焉の宅の碑(2020.8.4)【余談】
史跡 野村望東尼終焉の宅 望東尼は福岡の歌人 激動する幕末志士のかげにあって活躍した女流勤王家である 薩長の連合が成り 討幕軍が三田尻から出陣しようとするとき 寄寓先山口から防府に来て 防府天満宮に七日間参籠して王政復古を祈った 間もなく病を得慶応三年十一月 六十二才で没したのち正五位を贈らる .....

平尾山荘(平尾山荘公園)【名所旧跡・中央区城南区】
野村望東尼が勤皇の志士たちとつながりを持ったのは同じ歌人であった平野國臣を通してだと思われます。 1858年の「安政の大獄」で幕府から追われる月照を匿いますがこれは平野國臣を介してのものと思われ、その後、國臣は薩摩まで月照の警護を勤めます。 この辺りから、この山荘は勤皇の志士たちが集う.....

望東尼の姫島脱出(高杉晋作の救出作戦)【意外な人物伝】
1865年の乙丑の獄で望東尼は、糸島半島の西約4キロの「姫島」に流されます。 山荘に匿ってもらった過去のある高杉晋作はこれを知ると望東尼の救出を画策します。 1866年9月に晋作の意を受けた福岡脱藩の志士等は望東尼を「姫島」より脱出させ、下関の豪商・白石正一郎宅に送ります。 ここで高杉晋作と望.....

幕末・明治(勤皇の志士たちと「秋月の乱」)【一夜漬け福岡史】
幕末期には、真木和泉や平野國臣などの勤皇の志士が登場します。二人は1862年4月、薩摩藩の「寺田屋事件」に関わり捕らえられ、 それぞれ久留米藩、福岡藩へ送還されますが、一年後には許され再び志士活動を開始し京に上ります。 しかし京都では1863年8月に突然政変が起こり、朝廷に強い影響力のあ.....

高杉晋作(1839年~1867年)【福岡人物伝】
長州藩士で吉田松陰の松下村塾に学び、幕府に抵抗するため奇兵隊を創設した人物です。幕府の第一回長州征討後は、 長州藩保守派から逃れるため太宰府五条の酒蔵「中村酒屋」や野村望東尼の「平尾山荘」に匿われています。 のちに筑前勤皇党弾圧の「乙丑の獄」で島流しにされた野村望東尼を救い出し下関に迎えています。 .....

月照(1813年~1858年)【福岡人物伝】
「安政の大獄」で幕府より追われる月照は西郷隆盛と共に薩摩に逃れようとします。 そして下関で西郷と別れた月照は筑前で野村望東尼の「平尾山荘」や太宰府の宿屋「松屋」に匿われます。 その後、平野國臣の案内を得て薩摩に入り西郷と再会しますが、 薩摩藩は月照の受け入れを拒否したため錦江湾で西郷と共に入水し亡く.....

野村望東尼(1806年~1867年)【福岡人物伝】
幕末の混乱期に、僧・月照や高杉晋作を自邸に匿います。乙丑の獄(いっちゅうのごく)では糸島半島の西約4キロの「姫島」に流されますが、 高杉晋作の意を受けた福岡脱藩の志士の手で「姫島」を脱出し下関へ逃れます。.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2021.2.27

野上一閑と三奈木弥平次の写真を変更

2021.2.17

【記想録】秀吉の九州仕置き

2021.2.14

【記想録】貝原東軒夫人誕生地の碑

2021.2.8

望東尼の姫島脱出の写真を変更

2021.1.26

【記想録】後藤又兵衛の馬取り逐電す

2021.1.25

【記想録】肥後国衆一揆

2021.1.10

【記想録】島津義久降伏す

2021.1.5

親魏倭王印はどこにある?を追加

2021.1.4

金印の「委」は「倭」の略字?を追加

2021.1.2

「漢委奴国王」の読み方は?に加筆

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
上善は水の如し
-柔軟性があり自己主張がなくそれでいて力強い、そんな水のような生き方が最善である-
老子





名所旧跡・福岡地区南部
 【裂田の溝】-那珂川町山田~安徳-



裂田の溝

裂田の溝 さくたのうなで
 (築造年代 不明)


この神社の後に流れているのが日本書紀に書かれている裂田の溝(さくたのうなで)です。
山田のーノ井堰から取水し、山田をはじめ、流域の六集落の田地をうるおしてきた重要な人工の用水路で、日本書紀には「・・・溝を掘っていると、大岩に突き当たり、それ以上進めなくなった。そこで、神に祈ったところ、雷が落ち、その大岩が裂けて水を通すことができ・・・」と書かれ、それがこの溝の名前の由来にもなっています。我が国で一番古い歴史書に書かれ、現在まで使われ続けている溝は全国でも珍しく、貴重な遺跡といえます。
これより下流には、当時とあまり変わってない所がいくつかあり、はるか古代の大がかりな工事を想像できるのではないでしょうか。


那珂川町教育委員会

現地の案内板より
右手が裂田神社になります。




裂田溝 ~裂田溝の発掘調査~

裂田溝の名前の由来は、『日本書紀』の記載によるものですが、記載されている「大岩が立ち塞がった」のがこの場所だといわれています。教育委員会が実施した調査では、このことに関する貴重な成果が得られました。地質的な調査では、ここより上・下流は軟らかい地盤であるのに対し、この場所だけ硬い岩盤が東側の丘陵から細長く張り出していることがわかりました。(右図参照)また発掘調査でも、裂田神社の裏手から溝の底を経て、対岸まで広がる花崗岩の硬い岩盤を確認しています。つまり、ここまで掘り進んできた水路を北側へ通すためには、どうしても水路の開削を遮っている硬い岩盤を突破しなければならず、その工事がいかに大変であったかが、日本書紀の記載に繋がっだのではないかと考えられます。
裂田溝は、水田への水の供給をはじめ、私たちの生活と大変密接な関係にあったため、これまで必要に応じて何度も改修され溝幅も変化しています。しかし、この場所は伝説とも符合するため、水路の初期の形状を留める可能性が高い重要な場所といえます。

那珂川町教育委員会

裂田の溝の案内板より 「裂田溝 ~裂田溝の発掘調査~」の内容に「(右図参照)」との部分がありますが「右図」は掲載しておりません。 参考に GoogleMap を貼りつけています。
写真は裂田神社裏の溝になり、南に500mほどのところに裂田溝公園があります。













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スポットライト人物伝


【高橋紹運(たかはしじょううん)】
(1548年~1586年)


反旗を翻した高橋鑑種(たかはしあきたね)が筑前を追われると、 大友宗麟は重臣の吉弘鑑理(よしひろあきこと)の次男を高橋家に送り込み岩屋城と宝満城を守らせます。 これが後の高橋紹運です。島津氏の筑前侵攻の際は、763名の将兵と共に岩屋城に篭もり、数万の敵を相手に半月程持ちこたえますが、 遂に力尽き玉砕します。 しかし紹運の精神は死なず息子・立花宗茂へ引き継がれます。


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