■福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!
■名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡
■福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々
■意外な話…それってホント?意外すぎる話。
■よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!
■一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ
■福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要
■名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です
■リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。
■余談…ひとり言的な話です
■更新履歴…アップした日付
■訂正履歴…間違い直しの履歴です
■はじめに…お願いと参考書
2021.2.27
野上一閑と三奈木弥平次の写真を変更
2021.2.17
【記想録】秀吉の九州仕置き
2021.2.14
【記想録】貝原東軒夫人誕生地の碑
2021.2.8
望東尼の姫島脱出の写真を変更
2021.1.26
【記想録】後藤又兵衛の馬取り逐電す
2021.1.25
【記想録】肥後国衆一揆
2021.1.10
【記想録】島津義久降伏す
2021.1.5
親魏倭王印はどこにある?を追加
2021.1.4
金印の「委」は「倭」の略字?を追加
2021.1.2
「漢委奴国王」の読み方は?に加筆
裂田の溝
裂田の溝 さくたのうなで (築造年代 不明) この神社の後に流れているのが日本書紀に書かれている裂田の溝(さくたのうなで)です。 山田のーノ井堰から取水し、山田をはじめ、流域の六集落の田地をうるおしてきた重要な人工の用水路で、日本書紀には「・・・溝を掘っていると、大岩に突き当たり、それ以上進めなくなった。そこで、神に祈ったところ、雷が落ち、その大岩が裂けて水を通すことができ・・・」と書かれ、それがこの溝の名前の由来にもなっています。我が国で一番古い歴史書に書かれ、現在まで使われ続けている溝は全国でも珍しく、貴重な遺跡といえます。 これより下流には、当時とあまり変わってない所がいくつかあり、はるか古代の大がかりな工事を想像できるのではないでしょうか。
裂田溝 ~裂田溝の発掘調査~ 裂田溝の名前の由来は、『日本書紀』の記載によるものですが、記載されている「大岩が立ち塞がった」のがこの場所だといわれています。教育委員会が実施した調査では、このことに関する貴重な成果が得られました。地質的な調査では、ここより上・下流は軟らかい地盤であるのに対し、この場所だけ硬い岩盤が東側の丘陵から細長く張り出していることがわかりました。(右図参照)また発掘調査でも、裂田神社の裏手から溝の底を経て、対岸まで広がる花崗岩の硬い岩盤を確認しています。つまり、ここまで掘り進んできた水路を北側へ通すためには、どうしても水路の開削を遮っている硬い岩盤を突破しなければならず、その工事がいかに大変であったかが、日本書紀の記載に繋がっだのではないかと考えられます。 裂田溝は、水田への水の供給をはじめ、私たちの生活と大変密接な関係にあったため、これまで必要に応じて何度も改修され溝幅も変化しています。しかし、この場所は伝説とも符合するため、水路の初期の形状を留める可能性が高い重要な場所といえます。 那珂川町教育委員会
【高橋紹運(たかはしじょううん)】(1548年~1586年)反旗を翻した高橋鑑種(たかはしあきたね)が筑前を追われると、 大友宗麟は重臣の吉弘鑑理(よしひろあきこと)の次男を高橋家に送り込み岩屋城と宝満城を守らせます。 これが後の高橋紹運です。島津氏の筑前侵攻の際は、763名の将兵と共に岩屋城に篭もり、数万の敵を相手に半月程持ちこたえますが、 遂に力尽き玉砕します。 しかし紹運の精神は死なず息子・立花宗茂へ引き継がれます。