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検索の結果 10件の記事が見つかりました


もう一つの都(豊津とその周辺の史跡)【意外な話】
豊前国府中門跡 福岡の古都といえば誰もが大宰府を思い浮かべるに違いないのですが、福岡にはもう一つの古都が存在します。 それが京都郡みやこ町・豊津とその周辺の地域になります。ここには豊前国分寺や豊前国府跡、船迫窯跡(築上町)、御所ケ谷神籠石(行橋市)などの史跡があり、この施設が大宰.....

景行天皇(西暦300年前後?~)【福岡人物伝】
崇神天皇の孫で、橿日宮で崩御した仲哀天皇の祖父にあたります。 皇位に就いた当時、出産時に夫は子供が生まれるまで臼を担いで家のまわりを廻る風習があり、天皇も皇后が出産する際にこの風習に倣い、臼を担いで屋敷のまわりを廻っていたのですが、子供が双子だとわかった天皇は臼に向かって「こん畜生」と叫んだという.....

浮羽島(うきは市)【名所旧跡・朝倉・うきは】
位置はJRうきは駅の西方1㎞ほどの所です。国道210号線、土取の信号機の一つ西側の小さな交差点を南側に入り、200mほど進んだ右手になります。 国道210号線の入口には「浮羽島入口」の水色の看板が出ていますので見落とさなければすぐにわかると思います。 .....

熊襲の抵抗(300年代)【福岡史伝・弥生・古墳】
歴史上実在が認められている初めての天皇は崇神天皇ですが、その崇神天皇は倭国を中央集権化するため、「四道将軍」を発し倭国統一を目指します。これが西暦200年代後半の事だと思われます。「四道将軍」の四道とは北陸道、東海道、山陽道、丹波の四方面のことで、各将軍は共和国諸国の大和政権への帰属を確認しながら進.....

篠原泰之進(1828年~1911年)【福岡人物伝】
筑後浮羽の出身で関東で攘夷活動に走ります。その後、伊東甲子太郎に従い京都にて新選組に加入しますが、2年と数ヶ月後には伊東ら同士と共に御陵衛士(ごりょうえじ)を創設し新選組より離脱します。新選組はこの行動を表向きには了承しますが、脱隊を原則違反とする新選組の近藤勇、土方歳三らは伊東甲子太郎を謀殺、遺体.....

神功皇后伝説は伝説?(朝鮮半島への進出)【わかっていない事】
仲哀天皇とその皇后、神功皇后は実在の人物かどうか意見が分かれているようですが、実在の人物と仮定すれば、西暦300年代前半あたりに存在した人だと思われます。以下は2人が存在したことを前提に話を進めます。 仲哀天皇は祖父の景行天皇や父の日本武尊(やまとたけるのみこと)と同様に、熊襲(くまそ)平定を目指.....

狗奴国は「熊野」?「球磨」?(卑弥呼に属せずの「狗奴国」)【わかっていない事】
狗奴国(くなこく)は直接、福岡に関係ありませんが、「狗奴国=熊襲」の場合は間接的に関係してきます。 魏志倭人伝に記載される邪馬台国の敵国「狗奴国」は、熊野国(和歌山県)、球磨国(熊本県)、出雲、美濃地方の豪族など諸説あります。 以下、魏志倭人伝の抜粋です。 「南、邪馬台国に至る。女王の都する所.....

新選組局長・近藤勇を狙った男(筑後の柔術家・篠原泰之進)【意外な人物伝】
1867年11月18日、新選組は隊より離脱した御陵衛士(ごりょうえじ)の頭取・伊東甲子太郎とその同志三名を京都油小路で騙まし討ちにしますが、この報復として御陵衛士の生き残りは12月18日、京都・墨染で公務帰りの新選組局長・近藤勇を待ち伏せ狙撃し、左肩に重傷を負わせます。 子母沢寛は「新選組始末記」.....

仲哀天皇(?~362年)【福岡人物伝】
日本武尊(やまとたけるのみこと)の息子で熊襲征伐に意欲を燃やしますが橿日宮で突然崩御します。 崩御の理由は后の神功皇后の神託に従わなかったためとも、熊襲の矢に当たったためとも言われていますが、 歴史学上では実在しなかったという説もあるようです。.....

武内宿禰(?~?)【福岡人物伝】
日本書紀には筑紫にて神功皇后の補佐をした記述もある人物です。景行天皇から仁徳天皇まで5代の天皇に仕え、 日本書紀の記述が正しいとすれば武内宿禰は300歳近い寿命を全うしたことになりますが、武内氏が数代にわたって歴任した役職ではないかともいわれています。.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

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【記想録】孝高、信長面会

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【記想録】赤松則房の事

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懐良親王終焉之地を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
人生の大病はただこれ一の傲(ごう)の字なり
伝習録





一夜漬け福岡史
 【幕末・明治】-勤皇の志士たちと「秋月の乱」-

月形洗蔵幽閉の地の碑
幕末期には、真木和泉や平野國臣などの勤皇の志士が登場します。二人は1862年4月、薩摩藩の「寺田屋事件」に関わり捕らえられ、 それぞれ久留米藩、福岡藩へ送還されますが、一年後には許され再び志士活動を開始し京に上ります。
しかし京都では1863年8月に突然政変が起こり、朝廷に強い影響力のあった長州藩を会津薩摩の両藩が追い落とし、 三条実美(さんじょうさねとみ)ら長州派の七卿も西へ落ち延びます。これが「七卿落ち」で真木和泉も長州までこの一行に同行しています。 そして平野國臣は七卿のひとり澤宣嘉(さわのぶよし)と共に但馬生野で「生野の変」を起こし幕府に抵抗しようとしますが失敗し 捕らえられ京都六角獄舎へつながれます。
翌年、長州藩は京都に兵を送り巻き返しを図りますが、再び会津・薩摩藩に敗れます。 これが「禁門の変」で真木和泉も長州側の武将として戦いますが、 敗戦が濃厚になると京都より南西の天王山に登り同志と共に自刃して果てます。 前日には平野國臣もこの戦いの混乱で六角獄舎にて斬首されており、筑前筑後の二大巨頭はここに志半ばで斃れることになります。

その後、長州藩は第一次長州征討で幕府に屈したため、下関に滞在していた五卿は福岡藩に移されることになりました。 この時、福岡藩は王政復古思想を理由に蟄居させていた筑前勤皇党の月形洗蔵(つきがたせんぞう)の罪を許し、 五卿を迎えるため下関へ向かわせます。
月形の説得に五卿は太宰府遷座(せんざ)を了解し、翌年2月13日に太宰府の延寿王院(えんじゅおういん)に入ります。 これより延寿王院には多くの長州、薩摩、土佐、筑前勤皇党の志士たちが訪れ、語らい、のちの「薩長同盟」のきっかけとなっていきます。
また月形ら筑前勤皇党は、幕府に恭順する長州藩保守派に追われる高杉晋作を 大宰府五条の酒蔵「中村酒屋」や野村望東尼(のむらもとに)の「平尾山荘」へ匿っています。
しかし、これら筑前勤皇党の活動が幕府の耳に入らぬ訳はなく、福岡藩には幕府より圧力がかかったものと思われます。 1865年6月、突然「乙丑の獄」(いっちゅうのごく)が起こり、月形洗蔵をはじめ筑前勤皇党の中心人物二十一名が粛清され、 その他百名以上が処分を受けます。ここに筑前勤皇党は壊滅し、福岡藩は薩長土にパイプを持つ主だった人材を失います。 そして明治政府が樹立されると「乙丑の獄」で新政府への足がかりを失っていた福岡藩は苦しい立場に追い込まれてゆくことになるのです。

1867年に樹立された明治政府は西洋の文化を次々に取り入れ、1869年には四民平等を勧めます。 そして1876年に「廃刀令」が発せられると、西日本各地の士族が怒りを爆発させます。 熊本では「神風連の乱」、福岡では「秋月の乱」、山口では「萩の乱」が起こります。
「秋月の乱」といえば一般的に宮崎車之助(みやざきしゃのすけ)が中心人物といわれていますが、 実際には車之助は決起に消極的だったようで、 実弟の今村百八郎(いまむらひゃくはちろう)が、決起しないよう説得に現れた警察官・穂波半太郎を斬ったことでその場に居た者たちは、 決起を決断せざるおえなくなったといわれています。 しかし反政府活動は波及せず、この4日後には宮崎車之助ら乱の中心的な人物7名が自刃し乱は終息へ向かいます。
それから3ヵ月後の薩摩では私学校生たちの暴発に引きずられる様に西郷隆盛が決起し西南戦争が勃発します。 明治政府に不満をもつ福岡の士族はこれに呼応し西郷軍に合流しようと南下しますが、 現在の小郡市付近で新政府の鎮台兵に挟撃され秋月方面に逃れます。数日後には秋月に逃れた者たちも政府軍に捕縛され、 福岡士族の武力による反政府活動は終わりを迎えます。

(2012.11.29)








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スポットライト人物伝


【栗山大善(くりやまだいぜん)】
(1591年~1652年)


黒田官兵衛の信頼の厚かった栗山利安の息子。 栗山大善は第二代藩主の座に黒田長政の長男の忠之を就けますが、 その後、何かと行動に問題のある藩主・忠之との間に軋轢を生じ収拾不可能となると幕府に訴え出ます。 幕府は徳川家と黒田家との関係を重視し大善を南部藩預けとし、忠之の寵臣を高野山への追放し事を収めました。 これが「黒田騒動」ですが栗山大善は南部藩で余生を過ごし20年後に没することになります。 この時.....[全文を表示]


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