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「白村江の戦い」の帰還兵・博麻(自らを売った兵士)【意外な人物伝】
大伴部博麻(おおともべのはかま)は現在の八女市上陽町の出身で663年の「白村江の戦い」に出征し、唐軍の捕虜となります。 翌年には土師富杼(はじのほど)ら4名が唐人の計画を朝廷に知らせようと帰国を考えますが、その費用がありません。そこで博麻は「自分も一緒に帰国したいが、費用がなければ仕方ありません。.....

山鹿秀遠(?~1185年?)【福岡人物伝】
豊前国との境、筑前国山鹿の豪族です。治承・寿永の乱では平家方に属し、大宰府を追われた安徳天皇と平家一門に最後まで付き従います。壇の浦では平家の主力として戦いますが、平家一門と運命を共にしたものと思われ、以後は歴史に登場することはないようです。ところで山鹿いえば熊本の山鹿市が有名ですが、山鹿氏は菊池氏.....

「刀伊」(女真族)の入寇(1019年)【福岡史伝・平安】
1019年女真族「刀伊」の海賊3,000が50艘の船で対馬、壱岐を襲い、博多湾に姿を現します。 そして糸島東部から早良郡、能古島を荒らし、次に箱崎を攻撃します。 大宰権帥(だざいごんのそつ-大宰府長官-)の藤原隆家は警固所に集まった兵を率い、箱崎に上陸した刀伊の軍を撃退したため、 .....

藤原純友の乱(941年)【福岡史伝・平安】
四国伊予国で海賊討伐する立場であった藤原純友は936年頃に自ら海賊となり瀬戸内海で暴れまわりますが、941年2月、朝廷より鎮圧に派遣された軍に伊予国を制圧されます。 行き場をなくした純友は博多湾より大宰府へ侵攻し、都府楼に火をかけ、観世音寺で略奪を行います。 しかし同年5月には小野好古らの朝廷軍.....

新羅海賊の入寇(869年)【福岡史伝・平安】
平安初期の800年代、新羅の海賊が度々九州北部に来寇します。これには次のような事情があります。 676年朝鮮統一を果たした新羅はこの頃には衰退期を迎え、地方の王族や豪族が力を持ち始め、各地で反乱が起こります。 このような混乱の中で新羅の海賊の行動が活発化するのです。 博多では869年に2隻の海.....

道君首人の農政改革(713年)【福岡史伝・奈良】
若き頃に法律を学び官僚としても優秀だった道君首名(みちのきみおびとな)は53歳の頃に筑後守として赴任します。 年齢からして第一線を退き、引退までの繋ぎの赴任だったのかもしれませんが、 首名は筑後で果物や野菜の栽培、畜産を促進し、また同時に灌漑対策も進め農政に力を入れます。 そし.....

大宰府、水城、大野城を築く(663年~665年)【福岡史伝・飛鳥】
「白村江の戦い」に敗れると、中大兄皇子は新羅・唐の連合軍の九州侵攻に備え、 664年九州の行政機関「官家」(那津)の機能を造営中の「観世音寺」の西側に移し「大宰府」とします。 そして敵の侵攻を食い止めるため前面(博多湾側)に濠を掘った大堤「水城」を築き、 翌665年には大野山に.....

防人と烽の設置(663年)【福岡史伝・飛鳥】
663年、新羅・唐の連合軍の九州上陸を想定し、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)と烽(すすみ)を設置します。 防人とは筑紫の守備のために全国より派遣された兵士のことで、烽とは敵の動向を知らせる狼煙台のことです。 百済を制した新羅と唐は朝鮮半島の平定を優先し、高句麗の攻撃に向かいます。.....

白村江の戦い(663年)【福岡史伝・飛鳥】
倭国が朝鮮半島から撤退して約百年後の、660年百済は新羅・唐の連合軍の攻撃を受け滅亡します。 百済の遺臣の鬼室福信は百済復興のため倭国に救援依頼すると共に、倭国に滞在する百済の王子豊璋の帰国を求めます。 これに応えた中大兄皇子は661年百済復興救援のため豊璋を帰国させると共に兵を送り.....

磐井の乱(527年)【福岡史伝・弥生・古墳】
継体天皇は527年、対新羅戦のため任那に近江毛野(おうみのけな)率いる兵6万を送ろうとしますが、筑紫国造の磐井が乱を起こしこれを阻みました。 これは「新羅からの内応要請」や「朝鮮半島での戦役の負担への反発」などが理由とされています。 磐井は肥後と豊後を押さえ、朝鮮からの朝貢船を奪います。 これ.....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2021.1.10

【記想録】島津義久降伏す

2021.1.5

親魏倭王印はどこにある?を追加

2021.1.4

金印の「委」は「倭」の略字?を追加

2021.1.2

「漢委奴国王」の読み方は?に加筆

2020.12.31

【記想録】村重、孝高を禁獄す

2020.12.30

【記想録】摂津播磨離反す

2020.12.27

【記想録】備中高松城の水攻め

2020.12.22

【記想録】孝高の説得術

2020.12.20

【記想録】原田氏の先祖の事

2020.12.19

【記想録】長宗我部信親の最期

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
畏(おそ)るるは慎しみにおもむく初(はじめ)なり。畏るればつつしみ生ず。畏れざればつつしみなし。
養生訓





わかっていない事
 【金印はなぜ志賀島で発見された?】-奴国王の思惑は?-

江戸時代より金印には贋物説があるですが、その説の根拠の一つに奴国の中心地から遠く離れた志賀島から見つかった不自然さが挙げられています。確かに漢の皇帝より奴国王に送られた金印が、奴国の勢力範囲だったとはいえ、なぜ10㎞近くも離れた島から発見されたのか、誰もが不思議に思うのは自然なことなのかもしれません。
ところで金印に刻印された「漢委奴国王」という文字は「漢の倭の奴の国王」と解釈されるのが通説となっています。ちなみにこの時代より約200年後には、卑弥呼が魏の曹叡(そうえい・曹操の孫)より「親魏倭王」印を送られています。こちらは「魏と親しい倭王」という意味で倭国を独立した国と認めているのですが、「漢に属する倭国の中の奴国王」となると、倭国全体も奴国自体も漢の一部とみなす表現で奴国王としてはとても承服できない内容であったに違いありません。
仮にもしこの印を奴国王が使用するようなことがあれば、倭国内の他の国々からも批判の声が上がったでしょうし、倭国よりの独立を疑われそれを理由に攻められる可能性も皆無ではなかったでしょう。そんな事情で、奴国王はこの友好の品の取り扱いに苦慮したと思われます。
江戸時代に金印贋物説を唱えた派閥の中には「わが国を清国の領土とするような金印などいっそのこと鋳潰してしまえばよい!」と荒っぽいこと言い出す人も現れたようですが、奴国王も同様なことを思ったのかもしれません。さすがに友好の品を鋳潰す事までは考えなかったのでしょうが、金印を極秘裏に奴国の片隅の島に封印してしまった。といったシナリオも一つの説としておもしろいのかもしれません。

今から約2000年前、使者が持ち帰った金印を前に奴国王とその臣下たちはどのような問答を繰り広げたのか、今となってはその様子を想像するしかありません。








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スポットライト人物伝


【近江毛野(おおみけな)】
(?~530年)


継体天皇の命で近江毛野は新羅に奪われた地域を取り戻すため任那へ向かいますが、 その途中の九州で国造(くにのみやっこ)の磐井へ出兵の命令を伝えます。磐井はこの命令を拒否し反乱を起こします。 乱は1年半で平定されますが、その後、兵を率い朝鮮に渡った近江毛野の任那復興は上手くゆかず、新羅のみか百済からも攻められ窮地に陥ります。 この失策を理由に帰還を促されますが、すぐには戻らず二度目の命令でようやく腰を.....[全文を表示]


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