記事検索 

検索の結果 26件の記事が見つかりました


中山鹿之介の陣鐘?(国宝・西光寺の梵鐘)【Fアイテム】
明治30年(1897年)頃の事、早良内野の西光寺の檀家衆はお伊勢参りに出かけます。その帰途、大阪に泊まった一行が街中を散策中、一人の檀家が古物商の軒先に雨ざらしになった梵鐘に目を止めます。汚れた上に乳部(上部にある複数の突起)が3つも外れている鐘。「松江の金物店から引き取ったんやけど、高値でなかなか.....

五郎山と天山と宝満山(2018年3月5日)【余談】
福岡県筑紫野市にある歴史にまつわる三つ山を撮影しました。(北に向かって撮影しています)  手前が五郎山古墳がある原田・五郎山。五郎山古墳は終戦から2年後に発見された6世紀後半の古墳とされ内部では壁画が発見されています。現在は国指定の古墳となり、山は公園として整備されています。  手前から.....

博多の人魚伝説(消えてなくなった人魚塚)【意外な話】
博多冷泉町にある竜宮寺には人魚の物と言われる骨が安置され、「人魚伝説」が伝えられています。 鎌倉時代の1222年、博多津(冷泉津)で150m(異説あり)に近い巨大な人魚が捕らえられ、櫛田神社に近い浜辺(現在の中洲東側の博多川辺り)に引き上げられたと言われます。その遺骸は近くの寺に埋葬されその寺は竜.....

名家衰退(1533年~)【福岡史伝・戦国】
南北朝時代が終わると、今川了俊は帰京の命が下され九州を去ります。代わって九州探題には足利家一門の渋川氏が任命されるのですが、探題と反りの合わない筑前守護の少弐氏は渋川氏と戦いこれを筑前より追います。しかしこの事が、大内氏の九州進出のきっかけとなります。 少弐氏は幕府の命を受け渋川氏を支援する大内氏.....

北部九州戦国史(戦国時代)【福岡史伝・戦国】
室町後半から戦国初期にかけては筑前を手中に収め、北部九州で勢力を拡大する大内氏と筑前守護を自負する少弐氏の抗争が激化します。少弐氏は苦戦を強いられ肥前に追われますが、配下の龍造寺氏の活躍でどうにか対面を保ちます。しかし、後に龍造寺氏と反目し、龍造寺氏は大内氏に組します。 ところが、1551年にはそ.....

北部九州戦国年表(1530年~1621年)【福岡史伝・戦国】
以下に筑前、筑後、肥前を中心とする戦国時代の年表を記載します。 .....

もう一つの都(豊津とその周辺の史跡)【意外な話】
豊前国府中門跡 福岡の古都といえば誰もが大宰府を思い浮かべるに違いないのですが、福岡にはもう一つの古都が存在します。 それが京都郡みやこ町・豊津とその周辺の地域になります。ここには豊前国分寺や豊前国府跡、船迫窯跡(築上町)、御所ケ谷神籠石(行橋市)などの史跡があり、この施設が大宰.....

おしどり伝説(三原貞吉の話)【福岡悲話】
貝原益軒は「筑前國続風土記」に次のような話を載せています。 戦国の頃、筑後三原郡に三原貞吉(みはらさだよし)という武将がいました。大友氏の配下で、ある日に所用で主家の豊後へ出かけます。その途中、志波村(現在の原鶴温泉から北西の地帯)の香山淵を通りかかると、鴛鴦(おしどり)のつがいが仲良く泳いで.....

都府楼跡-大宰府政庁跡-(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
大宰府政庁の歴史 大宰府政庁は663年、那の津にあった官家をこの地に移したのが始まりです。 700年代の前半には大伴旅人、山上憶良などの万葉の歌人が赴任し、数多い歌が詠まれています。 738年には藤原広嗣が反藤原氏の橘諸兄によって大宰少弐に左遷され、2年後の74.....

博多総鎮守 櫛田神社(博多区上川端町)【名所旧跡・博多区】
博多の総鎮守、櫛田神社の祭神は大幡主大神、天照皇大神、素盞嗚大神の三神で、「博多祇園山笠公式ホームページ」には大幡主大神が祀られたのが757年、天照皇大神は記録になく、素盞嗚大神を祀ったのが941年のことと書かれてあります。 素盞嗚大神を祀ったのは平安時代の「藤原純友の乱」で下向し鎮圧した.....


[1] [2] [3]







目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2020.10.14

【記想録】勝龍寺城攻め

2020.10.11

【記想録】本能寺の変を報せた男

2020.9.27

懐良親王終焉之地を追加しました

2020.9.26

男装の漢詩人・原采蘋を追加しました

2020.9.6

名所旧跡に水城西門跡を追加しました

2020.9.4

名所旧跡に小水城跡を追加しました

2020.9.3

マイナーチェンジを行いました

2020.9.2

筑後みやまの平家伝説を追加しました

2020.8.10

船迫窯跡を追加しました

2020.8.7

朝倉の三連水車を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
古(いにしえ)の風と言えども、良くないことになぜ従うのか
-殉葬を取り止めにした時の言葉-
垂仁天皇





わかっていない事
 【神功皇后伝説は伝説?】-朝鮮半島への進出-

仲哀天皇とその皇后、神功皇后は実在の人物かどうか意見が分かれているようですが、実在の人物と仮定すれば、西暦300年代前半あたりに存在した人だと思われます。以下は2人が存在したことを前提に話を進めます。 仲哀天皇は祖父の景行天皇や父の日本武尊(やまとたけるのみこと)と同様に、熊襲(くまそ)平定を目指し九州に入ります。しかし仲哀天皇は橿日宮(香椎宮・福岡市東区香椎)で突然亡くなります。これは同行した神功皇后に「熊襲より新羅を攻めるように」と神託があったにも関わらず、仲哀天皇はそれを信じず、神の怒りが下ったためと古事記に書かれています。
その後、神功皇后は新羅と戦うために朝鮮半島へ渡ります。神功皇后はこの時、後の応神天皇を身ごもっていましたが、出産を遅らせるために石をお腹にあて冷やしたといわれています。この石が「鎮懐石」といわれ糸島市二丈町深江の「鎮懐石八幡宮」に祀られているとのことです。そして神功皇后は帰国後、宇美八幡宮で応神天皇を生みますが、これが安産であったことから宇美八幡宮は安産祈願の神社として知られるようになりました。

神功皇后の朝鮮遠征が何年頃のことなのか確かなところはわかっていませんが、西暦300年代に、三国動乱時代(高句麗、新羅、百済)の朝鮮へ倭国が干渉して行ったのは確かな事だと思われます。 倭国軍は朝鮮南岸、百済と新羅の間の伽耶に駐屯し百済と連携しつつ、新羅、高句麗と戦ったといわれ、その行動は高句麗の「広開土王陵碑」やその他の各国の史書に記載されています。そして倭国の朝鮮駐屯は新羅が伽耶を併合した西暦500年代中頃まで二百年程続いたものと想像されます。

以上、神功皇后が実在の人物と仮定した場合の話ですが、神功皇后は日本武尊、仲哀天皇と共に実在しなかったのではないかといった説も根強くあります。しかし九州北部には神功皇后を祀る神社や史跡があまりにも多く存在するという事実だけは否定できないのです。








福岡史伝へのアクセスにはこのQRコードをご利用ください
https://www.2810w.com


スポットライト人物伝


【黒田長興(くろだながおき)】
(1610年~1665年)


黒田長政は後継者に三男の長興を立てようとしますが、栗山大善ら家臣団の猛烈な反対に合い諦め、長男・忠之を後継者とします。 ただ忠之のみに黒田藩を託すことに不安を抱いた長政は、長興に五万石を与え分藩させることにしました。 これが秋月藩になります。


このページは ClubTwinHut が運営しています



© 2011 福岡史伝