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吉塚の由来(2021.3.28)【余談】
立花統虎(むねとら・宗茂)が籠る立花城を攻撃する島津の兵は、秀吉の軍が九州に上陸した情報を得ると南に向けて撤退を開始します。ひと月ほど前に岩屋城の戦いで実父・高橋紹運を島津に討たれた統虎は、これを機に城を出て攻撃に転じ、島津方の星野氏の守る高鳥居城に攻めかかります。その時の事が『黒田家譜』で次の通り.....

懐良親王終焉之地(八女市星野村)【名所旧跡・筑後地区南部】
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日本人は勝負事が好き?(2016年12月14日)【余談】
このところIR(Integrated Resort、統合型リゾート)法案で国会が騒がしくなっているようですが、観光客が増え、雇用が増え、税収が増えるのであれば悪くはないのではと、安易ではありますがそう思ってしまいます。外国人観光客も日本の「わび・さび」一辺倒ではどうなのでしょうか、滞在中の一日ぐらい.....

今川氏の九州攻略(1372年)【福岡史伝・南北朝・室町】
1370年、九州に入ることも叶わなかった渋川義行に代わり九州探題に命じられた今川了俊は、 九州攻略を三方面より進める策を取り、豊後に嫡男の今川貞臣を上陸させ高崎山城に籠城させます。 また弟の今川仲秋を肥前へ上陸させ大宰府へ向かわせ、そして自らは豊前門司より大内氏などの中国勢と共に上陸.....

筑後川の戦い(1359年)【福岡史伝・南北朝・室町】
「針磨原の戦い」から6年、京都で足利尊氏が没すると、勢いづいた南朝方とこれに抗する武家方(北朝方)が筑後川の北側で激突します。 これが、地元では「大原合戦」と呼ばれる「筑後川の戦い」です。 この戦いは「関ヶ原の戦い」「川中島の戦い」と並び日本の三大合戦に挙げられるほど大きな戦いとなり.....

日本国王・良懐とは誰?(明の抗議に応対した親王)【意外な人物伝】
時は南北朝の時代、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねながしんのう)は菊池武光の支援を得て1361年に大宰府を奪い、九州の北朝勢力をほぼ制圧します。 この懐良親王、菊池武光の活躍に隠れてなかなか人間性が見えてこないのですが、明の史書「明史」には親王の人間性が鮮やかに描かれています。 倭寇に手を焼いた.....

「大刀洗」地名の由来(「関ヶ原」に並ぶ大合戦「筑後川の戦い」)【意外な話】
1358年「関ヶ原の戦い」「川中島の戦い」と並び称せられる「筑後川の戦い」が起こります。 少弐、大友を中心とする北朝軍と懐良親王、菊池を中心とする南朝軍が筑後川の北側で激突します。 戦いは南朝軍有利で終わりますが、死傷者は北朝軍18,000人、南朝軍6,900人といわれ、戦いの壮絶さは「関ヶ原の.....

懐良親王(1329年~1383年)【福岡人物伝】
後醍醐天皇の皇子で、薩摩から九州へ上陸し南朝側の菊池武光に迎えられ肥後北部の菊池に征西府を開きます。 その後、菊池氏の武力を背景に1361年に大宰府を攻略し九州をほぼ制圧します。 この頃、創生期の明では倭寇に手を焼いた洪武帝が抗議の使者を送りますが、これに日本国王として応対したのが懐良親王です。 .....

菊池武光(1319年~1373年)【福岡人物伝】
菊池武時の十男で、母親方の後ろ盾がなかったためか十三代頭主の兄・菊池武重の没後、弟の武士(たけし)にその座を譲ります。しかし公卿の娘の子であった武士は武力、統率力に欠けたのか頭主の座を廃されて、武光が十五代頭主となります。 その後 武光は後醍醐天皇の皇子・懐良親王を迎え着々と勢力を拡大し筑後から筑前.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2021.8.5

【記想録】「九州にも千歳川?」に加筆

2021.8.4

【記想録】一身の得喪は慮るに足らず

2021.8.2

【記想録】不可なるを知りて為す者か

2021.8.1

【記想録】自由と我が儘との境は?

2021.7.27

【記想録】博奕を成すは猶お已むに賢れり

2021.7.26

【記想録】其の長ずる所を説かしむべし

2021.7.25

【記想録】外から見て御覧ナァ

2021.7.24

【記想録】最も藻鑑を累わす

2021.7.23

【記想録】過を改むる者は鮮なし

2021.7.22

【記想録】物事に数寄好みなし

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
少し心の歪みに付いて、後は大に歪むものなり
-小さい歪みは、あとには大きく歪むものである-
五輪書 -地の巻-





わかっていない事
 【卑弥呼は誰?】-百襲媛(ももそひめ)は鬼道につかえる?-

「魏志倭人伝」には卑弥呼に関して次のような記述があります。

「 ~前略~ 一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、よく衆を惑わす。この年長大なるも、夫婿なく、男弟あり佐けて國を治む。王となりて以来、見(まみ)ゆる者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。 ~以下略~」

卑弥呼の説としては、次のようなものがあります。

①西暦300年前後に大和朝廷に滅ぼされた王朝の女王説
②神功皇后説
③倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)説
などの他、様々な説があります。

①の説は「邪馬台国」と「大和朝廷」はまったくの別物と考え、卑弥呼の「邪馬台国」は倭国共和国を代表する国で、のち狗奴国(または他の国)により滅ぼされた国とする説です。そして「邪馬台国」を滅ぼした国が大和朝廷となったという訳です。邪馬台国九州説をとる場合は総じてこの説に行き着くものと思われます。
②の説は日本書紀に注釈として書かれている説ですが、卑弥呼と神功皇后は年代が100年ほどずれているのが気になります。
③の説は「邪馬台国」が後の「大和朝廷」とした場合、一番可能性の高い説だといわれています。

そこで倭迹迹日百襲媛命、略して百襲媛(ももそひめ)について触れようと思います。

西暦200年代の後半と思われる崇神天皇の時代に疫病が発生し猛威を振るいます。各地で流浪の民が疫病と飢えに倒れ、道端には無数の屍が放置される凄惨な状態が続きます。そこでこの疫病を鎮めるため崇神天皇は祖父孝元天皇の異母兄妹の百襲媛(ももそひめ)に頼り神託を受けます。そして大田田根子という人物に大物主神(おおものぬしのかみ)を祀らせると、疫病は治まり国にも平和が戻ったといいます。
また崇神天皇は中央集権国家づくりのため、「四道将軍」を東海、北陸、丹波、山陽へ派遣しますが、その隙を突いて叔父(伯父?)の武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が反乱を起こします。これを予知した百襲媛は「今すぐに対応しないと遅れをとることになるだろう」と告げます。崇神天皇はすばやく行動を起こし、大坂へ軍を進めてきた武埴安彦命の妻・吾田姫(あたひめ)を「四道将軍」の山陽道方面軍に討たせ、山背より攻めてきた武埴安彦命軍には北陸方面軍を向わせ撃破します。
このような特異な能力を発揮する姿を描かれた百襲媛が「鬼道につかえ、能く民衆を惑わす」卑弥呼に重なり同一人物説となったようです。また「卑弥呼」の読みは百襲媛命(ももそひめのみこと)の最後部分の「ひめのみこと」が「ひめこ」→「ひみこ」になったのではないかといわれています。
現在の奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)が百襲媛の墳墓といわれていますが、その規模が「大きな冢(ちょう-墓-)を作る。径百余歩あり。」(魏志倭人伝)という卑弥呼の墓の大きさとほぼ一致するということです。








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スポットライト人物伝


【少弐貞経(しょうにさだつね)】
(1272年~1336年)


「元弘の乱」では菊池武時の決起要請の使者を切り捨て、翌日には北条英時の鎮西軍と共に鎮西探題に討入った菊池武時を敗死させます。 そして、その2ヵ月後には大友貞宗と共に北条英時を攻め滅ぼし最後の北条氏の勢力を殲滅します。 しかし、3年後に大宰府へ攻め込んで来た菊池武敏(菊池武時の九男)に有智山城を攻められ自害することになります。


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