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検索の結果 16件の記事が見つかりました


筑後みやまの平家伝説(平家の史跡)【福岡悲話】
壇ノ浦の戦いで生き残った平家の一団は船または徒歩で博多を経て、そこから大宰府に向かったものと思われます。ただ頼りの原田種直は「葦屋浦の戦い」で源範頼に敗れもう平家の人々を守る力も気力もなかったのかもしれません。 そこから一行は源氏の追手を逃れるために行くあてもなく薩摩街道を南へ南へと急ぎます。 .....

平家最後の拠点・彦島(2020.6.9)【余談】
九州を追われた平家は1183年11月「水島の戦い」で源義仲を破るものの、翌年2月 源義経に「一ノ谷の戦い」で敗れ、その1年後には「屋島の戦い」で再び敗れ四国を追われます。 「屋島の戦い」の数日前には源範頼が九州芦屋に上陸していたため、行き場をなくした平家一門は長門彦島に逃れますが、まもなく「壇ノ浦.....

山鹿秀遠(?~1185年?)【福岡人物伝】
豊前国との境、筑前国山鹿の豪族です。治承・寿永の乱では平家方に属し、大宰府を追われた安徳天皇と平家一門に最後まで付き従います。壇の浦では平家の主力として戦いますが、平家一門と運命を共にしたものと思われ、以後は歴史に登場することはないようです。ところで山鹿いえば熊本の山鹿市が有名ですが、山鹿氏は菊池氏.....

芦屋から壇ノ浦へ(1183年~1185年)【福岡史伝・平安】
芦屋町山鹿の城山。手前は遠賀川河口 豊後の緒方氏の兵に大宰府を追われた平家一門は博多の東の箱崎を抜け、そこから東の海岸沿いに遠賀川河口の山鹿へ向かいます。 山鹿といえば熊本県山鹿市が有名なのですが、福岡県遠賀郡の芦屋町にも山鹿という土地があり平家物語に出てくる山鹿はこちらにな.....

歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

筑後竹野の戦い(1183年)【福岡史伝・平安】
木曽義仲に都を追われた平家一門は大宰府に入りますが、都府楼は鎮西反乱で焼け落ちていたため安徳天皇は原田種直の屋敷に入ったといわれます。そのためすべての平家の人々が屋敷に入り切れず、末端の人々は野宿同然の生活を強いられたようです。 そんな状況の中、後白河法皇の院宣を受けた豊後の緒方惟義は平家追討の動.....

原田種直(?~?)【福岡人物伝】
都落ちした安徳天皇と平家一門を筑紫に迎え入れますが、豊後の兵が攻め寄せて来たため平家一門は着の身着のまま北に向かいます。種直はその後を追い、遠賀川河口の山鹿まで護衛しています。 この約1年後には源範頼が九州上陸を開始し芦屋海岸に攻め寄せたため、これを阻止するため交戦しますが敗れ源氏の軍の上陸を許し.....

平貞能(?~?)【福岡人物伝】
鎮西反乱が起こると1181年、筑紫に派遣されその翌年には乱を平定し一旦帰還しますが、都は木曽義仲の軍が迫り大混乱の中にありました。貞能は「都に留まるべき」と主張しますが、平家一門は西へ落ちて行き、仕方なく貞能もその後を追って大宰府に入ります(平家物語では東国に向かい宇都宮朝綱の元に身を寄せたとされて.....

鎮西反乱-治承・寿永の乱-(1180年~1185年)【福岡史伝・平安】
1180年の後白河天皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)により、日本各地で平家に対する募る不満が爆発します。京では源頼政が以仁王に従い、伊豆では源頼朝、木曽では源義仲が挙兵します。 以仁王自身は平家の追手に追い詰められ討たれますが令旨は各地に届けられ、12月には肥後の菊池隆直が反.....

源平合戦後の九州(1185年~)【福岡史伝・鎌倉】
「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡すると、平家側の武将であった原田種直は領地を没収され鎌倉で囚われの身となります。 そして九州には源頼朝が武藤資頼(すけより)、大友能直(よしなお)、島津忠久(ただひさ)を派遣し、 武藤氏は九州北西部(現在の福岡北部、佐賀、長崎)、大友氏が九州北東部(現在の大分.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2020.9.6

名所旧跡に水城西門跡を追加しました

2020.9.4

名所旧跡に小水城跡を追加しました

2020.9.3

マイナーチェンジを行いました

2020.9.2

筑後みやまの平家伝説を追加しました

2020.8.10

船迫窯跡を追加しました

2020.8.7

朝倉の三連水車を追加しました

2020.8.6

漢委奴国王印の鈕は駱駝?

2020.8.5

宮本武蔵の碑を追加しました

2020.8.4

野村望東尼終焉の宅の碑を追加しました

2020.8.3

羽犬塚の由来を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
なせば成るなさねば成らぬ成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ
武田信玄





意外な人物伝
 【明史・秀吉伝】(1592年)-中国から見た豊臣秀吉像-

神屋宗湛屋敷跡「豊国神社」
中国の清の時代に書かれた「明史」には豊臣秀吉の事が描写されていますが、概要は次の通りです。

日本国王の下に関白の信長という者がいた。信長はある日、鷹狩りに出かけたが、その時、木の下に寝転んでいた男が突然飛び起きて信長に猛進してきた。この男を捕らえて何事か問い詰めると、男が言うには「私は平秀吉という者で、薩摩人の奴隷である」と。体は丈夫ですばしっこく、その上に口先が達った。 信長はこれを面白がり、馬廻りの役に付け、「木下」と名を与えた。信長のためによく働き、後に二十余州を奪い大将となった。
信長は罪を犯した参謀の阿奇支(安芸・毛利氏と明智光秀を混同?)を秀吉に討たせるが、その信長自身が部下の明智に討たれてしまった。 変を聞いた秀吉は阿奇支を滅ぼした勢いで、取って返し明智を誅滅し、名を響かせた。そして1586年(1585年?)、信長の3人の子を廃し、自らが関白となった。
その後、秀吉は諸将の兵を引き連れ明を攻めようとしたが、その時、子供が死んで、兄弟もなかった(「自国を守らせる身内がいなかった」の意?)。 また、豊後の将(大友義統?)の妻を奪い妾とした。 諸将は秀吉の暴虐を怨み「この戦いの目的は明を攻めることではなく、我々の力を削ぐ事に違いない」と言った。 そして諸将の心もバラバラでまとまりがなかった。この様な事情で秀吉は自ら攻めて来ることはなかった。

以降にはその後の「朝鮮の役」の概要が載せられ、戦いの途中にして秀吉が死んだため倭の諸将は各々自国へ引き上げて行き、やっとゆっくり眠れる様になったと記されています。
ところで、この「明史」に記載される内容が、戦役の当時に日本から伝わった情報なのか、それとも江戸時代に書かれた創作を含む伝記が伝わったものなのか、興味深いところです。 もし前者であるならば、日本でも知られていない小さな真実がこの記事の中に埋もれているのかもしれません。

-参考・引用「倭国伝」(藤堂明保氏、竹田晃氏、影山輝國氏/講談社学術文庫)-








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スポットライト人物伝


【高杉晋作(たかすぎしんさく)】
(1839年~1867年)


長州藩士で吉田松陰の松下村塾に学び、幕府に抵抗するため奇兵隊を創設した人物です。幕府の第一回長州征討後は、 長州藩保守派から逃れるため太宰府五条の酒蔵「中村酒屋」や野村望東尼の「平尾山荘」に匿われています。 のちに筑前勤皇党弾圧の「乙丑の獄」で島流しにされた野村望東尼を救い出し下関に迎えています。


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