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検索の結果 14件の記事が見つかりました


小野岑守(778年~830年)【福岡人物伝】
平安初期の政治家で伝説の詩人・小野篁(たかむら)の父親になります。文人でもあり「凌雲集」「日本後紀」の編纂にもあたります。大宰大弐として着任した際、道端に行き倒れた人々を目の当たりにし、これをあわれみ救済施設「続命院」を創設します。 余談になりますが、幕末維新に活躍した医師・高松凌雲の号は福祉に勤.....

中山鹿之介の陣鐘?(国宝・西光寺の梵鐘)【Fアイテム】
明治30年(1897年)頃の事、早良内野の西光寺の檀家衆はお伊勢参りに出かけます。その帰途、大阪に泊まった一行が街中を散策中、一人の檀家が古物商の軒先に雨ざらしになった梵鐘に目を止めます。汚れた上に乳部(上部にある複数の突起)が3つも外れている鐘。「松江の金物店から引き取ったんやけど、高値でなかなか.....

歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

博多総鎮守 櫛田神社(博多区上川端町)【名所旧跡・博多区】
博多の総鎮守、櫛田神社の祭神は大幡主大神、天照皇大神、素盞嗚大神の三神で、「博多祇園山笠公式ホームページ」には大幡主大神が祀られたのが757年、天照皇大神は記録になく、素盞嗚大神を祀ったのが941年のことと書かれてあります。 素盞嗚大神を祀ったのは平安時代の「藤原純友の乱」で下向し鎮圧した.....

平清盛「袖の湊」を築く(1158年~1170年代)【福岡史伝・平安】
正確な年代は不明ですが平安時代の末期、博多に「袖の湊」が築かれます。この港は平清盛が築いたのではないかといわれていますが、 その説が正しいとすれば、1158年、清盛が大宰大弐に任命された以降と思われます。 この任命に前後して起こった「保元の乱」と「平治の乱」で対抗する有力者を倒し権力.....

新羅海賊の入寇(869年)【福岡史伝・平安】
平安初期の800年代、新羅の海賊が度々九州北部に来寇します。これには次のような事情があります。 676年朝鮮統一を果たした新羅はこの頃には衰退期を迎え、地方の王族や豪族が力を持ち始め、各地で反乱が起こります。 このような混乱の中で新羅の海賊の行動が活発化するのです。 博多では869年に2隻の海.....

鎌倉時代(二度の元寇と元弘の乱)【一夜漬け福岡史】
この時代には鎌倉幕府の思惑により武藤氏が大宰少弐に任命され赴任します。武藤氏は官位の少弐を名乗り、 平安時代の原田氏に代わり、筑紫の治安を守ることになります。 ただ鎌倉幕府で平氏の流れを汲む北条氏が実権を持つと、原田氏も怡土郡(いとぐん)と秋月に領地を持つことを許されます。 この時.....

平安時代(菅原道真左遷と藤原純友の乱)【一夜漬け福岡史】
901年、藤原時平等の画策により菅原道真が大宰府に左遷されます。そして二年後に多くの漢詩を残した謫居(たっきょ・配流先の住居のこと)で病没します。 遺体は大宰府東方の安楽寺に埋葬されますが、後にその地に社殿が建立されます。これが太宰府天満宮の起源になります。 そして菅原道真の左遷から.....

「隋書」の秦王国はどこ?(筑紫の東にあった中華風な国とは?)【わかっていない事】
隋の煬帝(ようだい)は日本からの使者・小野妹子が帰国する際に裴世清(はいせいせい)を使者として付けますが、その時の道筋が唐時代初期に書かれた「隋書」に記載されています。 百済を渡り(朝鮮半島の西沿岸を航行し)、竹島(珍島?)に至り、耽羅(たんら・済州島)の北を通る。そして大海の中にある対馬国を経て.....

「刀伊の海賊」を撃退した男(暴れん坊中納言・藤原隆家)【意外な人物伝】
「東(あづま)男に京女」なんて言葉がありますが粗野粗暴のイメージは東男だけの特権ではないようで、意外なことに平安時代の京男にも結構な豪傑がいたようです。 その人の名を藤原隆家といいます。父親は朝廷№1の実力者、姉は天皇の中宮(第一婦人)という名門ゆえに、十代半ばにはやりたい放題を繰り返します。たと.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2020.10.14

【記想録】勝龍寺城攻め

2020.10.11

【記想録】本能寺の変を報せた男

2020.9.27

懐良親王終焉之地を追加しました

2020.9.26

男装の漢詩人・原采蘋を追加しました

2020.9.6

名所旧跡に水城西門跡を追加しました

2020.9.4

名所旧跡に小水城跡を追加しました

2020.9.3

マイナーチェンジを行いました

2020.9.2

筑後みやまの平家伝説を追加しました

2020.8.10

船迫窯跡を追加しました

2020.8.7

朝倉の三連水車を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
板垣死すとも自由は死せず
-遊説中に暴漢に刺された時に叫んだ言葉-
板垣退助





福岡史伝・戦国
 【休松の戦い】(1567年)

休松の戦いが起こった一帯
毛利氏は周防長門を平定し次に東の尼子氏を倒すと、大内氏の領した筑前を取り戻すため動き出します。
1567年8月、筑前では毛利氏の支援を受けて秋月種実が大友氏に反旗を翻します。
大友宗麟は戸次鑑連(べっきあきつら・後の立花道雪)、吉弘鑑理(よしひろあきなお・高橋紹運の実父)、臼杵鑑速(うすきあきすみ)の有力武将へ2万の兵を与え鎮圧に当たらせますが、 8月14日の緒戦に秋月種実は古処山の麓で激しい戦いを仕掛けるものの、以後は古処山城に入り守りを固めます。 大友方の三将も天然の要害・古処山城を攻める手立てもなく膠着状態に入りますが、 そこに毛利勢の九州渡海の動きを知らせる情報が入ります。 この報に接した毛利に心を寄せる豊前、筑後の諸勢力は理由をつけて大友軍から離脱し各々の所領に帰える準備を始めます。 大友に遺恨のない武将たちもこの動きに動揺し自領を固める名目で戦線を離れる者が多くなります。
このような状況の中、大友宗麟の命で三将は一旦、筑後の高良山へ兵を引くことになりますが。 その9月3日の夜、撤退を開始した大友勢の背後に秋月勢4千が突如として襲い掛かります。 20日間もの間、城に籠もっていた兵が攻撃してくる事を予測していなかったのか、 大友勢は大混乱に陥り逃げ落ちて来る味方を敵勢と勘違いし同士討ちが起こります。 戸次鑑連はこの状態を収拾し秋月勢と戦いますが、豊後目指して逃げ帰る味方の大軍の動きは止められず、多くの戦死者を出し撤退することになりました。

10年前にこの地で父・秋月文種を大友の軍に討たれ、自らも命からがら毛利元就の元まで逃れた経験のある秋月種実はこの戦いで溜飲を下ろすことになります。








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スポットライト人物伝


【大伴金村(おおともかなむら)】
(?~?)


西暦500年代前半から中盤にかけての大和王権の重臣。倭国の朝鮮半島へ影響力が弱まると百済に任那四県割譲を行い、 また「磐井の乱」では継体天皇に物部麁鹿火を討伐軍の将軍に推薦します。 のちに任那四県割譲問題で責められ大和政権の表舞台より去ることになります。 ちなみにこの人物は九州に来た記述はないようですが、息子の磐(いわ)と狭手彦(さてひこ)を任那支援に向かわせ、 磐は筑紫で後方支援を担当したと日本.....[全文を表示]


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