記事検索 

検索の結果 1件の記事が見つかりました


寛政異学の禁(1790年)【福岡史伝・江戸】
.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2020.11.25

【記想録】秀吉の手紙

2020.11.24

【記想録】孝高、信長面会

2020.11.23

【記想録】毛利と宇喜多の旗

2020.11.22

【記想録】松壽丸危うし

2020.11.4

【記想録】異説 賤ヶ岳の七本槍

2020.11.1

【記想録】赤松則房の事

2020.10.14

【記想録】勝龍寺城攻め

2020.10.11

【記想録】本能寺の変を報せた男

2020.9.27

懐良親王終焉之地を追加しました

2020.9.26

男装の漢詩人・原采蘋を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
事は密を以って成り、語は泄(も)るるをもって敗る
韓非子





福岡史伝・戦国
 【岩屋城の戦い】(1586年)

岩屋城の碑
1578年「耳川の戦い」(日向)で島津義久に大敗した大友宗麟は、徐々に九州北部へ追い詰められていきます。 8年後の1586年4月、島津を防ぐ手立てをなくした大友宗麟は、大阪城で豊臣秀吉に謁見し救援を求めます。 秀吉はこれに応え、仲裁を試みますが、九州統一を目前にした島津義久はこれを拒否し、従弟の島津忠長を筑前に侵攻させます。 この島津の対応に秀吉が激怒したか、ほくそ笑んだかは想像するしかありませんが、 とにかくこの時点で秀吉は徳川家康という最大のライバルの懐柔中で、早急な対応ができない状態でした。
そして筑前では、大友宗麟の家臣、高橋紹運が大宰府の岩屋城で、将兵763名と共に島津軍5万を迎え撃ちました。 戦いは壮絶を極め、城攻めの島津軍は3千以上の犠牲者を出したといわれます。 そしてついに攻撃開始より14日目の7月27日、岩屋城は落ち、紹運と将兵は共に玉砕しました。
島津軍は続いて紹運の次男、統増が守る宝満城を開城させ、長男、立花宗茂の立花山城へ向いました。 しかし宗茂の守る立花山城は堅く、攻め切れずにいたところへ、「秀吉軍の九州上陸」の報を受け、島津軍は南へ向けて撤退を開始します。 この日が8月24日で岩屋城玉砕の約1ヶ月後のことでした。


紹運は岩屋城の戦いで、敵将より降伏を勧められますが、「もし貴殿が攻められる側であったならば、命を惜しみ忠義を捨てて降伏されるのか?」と一蹴にしたそうです。また九州平定後、秀吉は紹運の忠義を「戦国の華」と褒め称えたそうです。人を褒める事が好な人だったようですが、岩屋城の戦いの様子を聞き知った秀吉の心からの褒め言葉だったと想像したく思います。








福岡史伝へのアクセスにはこのQRコードをご利用ください
https://www.2810w.com


スポットライト人物伝


【安徳天皇(あんとくてんのう)】
(1180年~1185年)


木曽義仲が京都に攻め上ると、安徳天皇は平家一門に守られ筑紫大宰府へ逃げ落ちます。 しかし、大宰府も安住の地ではなく緒方氏に攻められ四国屋島へ逃れます。 その後、「一の谷の戦い」、「屋島の戦い」と源義経の軍に破れ、ついに1185年4月「壇ノ浦の戦い」で平家軍が壊滅すると、 僅かに五歳の安徳天皇は二位の尼(平時子、外祖母で平清盛の妻)と共に入水し亡くなります。 ところで平家一門が都落ちで大宰府に入っ.....[全文を表示]


このページは ClubTwinHut が運営しています



© 2011 福岡史伝