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足立山の伝説(2020.7.27)【余談】
数年前、北九州にある足立山妙見宮の和気清麻呂公像を撮影に行ってきたのですが、その帰り、住宅街の通りを車で走っていると、なんか歩道を歩く犬・・・チョットした違和感が・・・「ん!」リードを引っ張る飼い主がいない?チラ見すると「なぬッ! イ・ノ・シ・シ!!」 車を止めて、しばしのイノシシウォッチング。イ.....

神託事件-豊前の伝説-(769年)【福岡史伝・奈良】
宇佐八幡宮神託事件は「続日本記(しょくにほんぎ)」に書かれている出来事です。 その記事は769年、称徳天皇の怒りの詔(みことのり)から唐突に始まります。 「臣下というものは、君主に従い清く貞しい明るい心をもって助け守り、無礼な面持ちをせず、よこしまで偽ったり、へつらい曲がった心を持たず仕えるもの.....

奈良時代の権力闘争(716年)【福岡史伝・奈良】
奈良時代というと個人的には ほのぼのとしたイメージが強いのですが、かって文豪が書いた「兎角にこの世は住みにくい」という言葉の如く、この時代も他の時代を凌ぐ熾烈な権力闘争が繰り広げられていました。 729年、時の実力者の長屋王が邸宅を朝廷の軍勢に囲まれ自害します(長屋王の変)。これは藤原四兄.....

藤原広嗣の乱(740年)【福岡史伝・奈良】
天然痘の流行で当時の有力者、藤原四兄弟(藤原不比等の息子たちで藤原鎌足の孫にあたる)が立て続けに没すると、 反藤原氏の橘諸兄(たちばなのもろえ)が権力を握ります。 藤原四兄弟の三男宇合(うまかい)の息子、藤原広嗣(ひろつぐ)は、 藤原氏の勢力を盛り返そうとしますが、反藤原勢力の.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2021.1.10

【記想録】島津義久降伏す

2021.1.5

親魏倭王印はどこにある?を追加

2021.1.4

金印の「委」は「倭」の略字?を追加

2021.1.2

「漢委奴国王」の読み方は?に加筆

2020.12.31

【記想録】村重、孝高を禁獄す

2020.12.30

【記想録】摂津播磨離反す

2020.12.27

【記想録】備中高松城の水攻め

2020.12.22

【記想録】孝高の説得術

2020.12.20

【記想録】原田氏の先祖の事

2020.12.19

【記想録】長宗我部信親の最期

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
人を挙ぐるにはすべからく退を好む者を挙べし
宋名臣言行録





福岡史伝・戦国
 【毛利氏の筑前侵攻】(1557年~)

門司城の碑(後方の橋は関門橋)
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種と五ヶ山(佐賀県鳥栖市北西の山間部)の筑紫惟門(これかど)ですが、これに対し大友宗麟は二万の大軍を送り、古処山城を攻めて文種を討ちます。文種の子・種実は落城に先立ち毛利氏の元へ逃れ、惟門も城に火を放ち山口に落ちます。

翌年、元就は関門海峡を渡り門司城を攻略。これに対し大友宗麟も兵を送りこの攻防戦は3年ほど続きますが最終的に元就が門司城を奪取し筑前攻略の足掛かりとします。 そしてこの間に秋月種実と筑紫惟門は旧領に戻り、再び反旗を掲げます。元就も着々と豊前の攻略を行いますが、1564年、石見の尼子氏と戦うために、大友氏と和睦し東に兵をとって返します。そのため筑前騒乱は収束に向かいますが、それも束の間、元就は1566年に尼子氏を下すと、再び九州に兵を向け筑前は慌しくなります。
1567年には秋月種実が再度挙兵し「休松の戦い」で大友の大軍を大混乱に陥れます。また宝満城で大友の重臣・高橋鑑種(あきたね)が反旗を翻し、また翌年には西の大友と呼ばれる立花城の立花鑑載(あきとし)までもが毛利氏に寝返ります。そして肥前の龍造寺隆信もこの混乱に乗じ東に触手を伸ばします。
この危機的状況に大友宗麟は先ず、戸次鑑連(べっきあきつら、立花道雪)に命じ立花城の立花鑑載を猛攻、自刃させます。次に大軍を肥前に送り筑紫惟門を討ち、龍造寺隆信を攻めますが、毛利氏が筑前に侵攻して来たため、隆信と急きょ和睦し、毛利軍と戦うため兵を北へ向け、多々良川をはさみ対峙します(1569年「多々良浜の戦い」)。緒戦では優劣が付かず、お互いに睨み合いが半年ほど続きます。
その間に宗麟は以前に大内義興(よしおき、義隆の父)に謀反、失敗し豊後に逃れていた大内輝弘(義隆の従兄弟)に兵を付けを周防に上陸させ、また石見を追われた尼子氏の遺臣を支援し、敵の後方を攪乱します。このため毛利元就は本国守備のために筑前より撤退せざるおえなくなります。
毛利氏の支援を失くした秋月種実は降伏、高橋鑑種は開城を条件に豊前・小倉へ移ります。
以後、毛利氏は織田信長の命で中国へ侵攻して来た羽柴秀吉と戦うため東へ兵力を集中することとなり、筑前の騒乱は大友宗麟が「耳川の戦い」で大敗を喫する1578年までの約10年の間、一旦、鎮まります。








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スポットライト人物伝


【栗山利安(くりやまとしやす)】
(1551年~1631年)


黒田官兵衛が若い時より付き従った人物で黒田家家臣団の中心武将です。 有岡城に官兵衛が幽閉されると出入りの商人に紛れ潜入し囚われの主君に面会を果たし、 有岡城落城の際は一番に土牢に駆けつけ官兵衛を救い出します。 また関ヶ原の戦いが起こると人質にされそうになった官兵衛、長政の両夫人を母里太兵衛と共に大坂の黒田邸より救い出し中津城まで送り届けています。


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