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検索の結果 21件の記事が見つかりました


歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

佐伯常人(?~?)【福岡人物伝】
奈良時代中頃の武人で740年の「藤原広嗣の乱」を平定するために派遣された人物です。「板櫃川の戦い」では川を挟んでの藤原広嗣との論戦で広嗣に大儀がないことを指摘し、広嗣に兵を引かせています。.....

筑紫に置かれた「漏刻」とは?(中大兄皇子の水時計研究)【Fアイテム】
漏刻とは水時計の事ですが、中大兄皇子がこの漏刻の研究をしていた事はあまり知られていません。 大宰府政庁の東側の小高い丘(月山)には漏刻が設置されていたといわれ、皇子の母・斉明天皇の藁葬(こうそう・仮埋葬)の地の恵蘇八幡宮にも漏刻が置かれていたという事です。 現在ではその漏刻は残っておらず、また具.....

荒生田神社(北九州市八幡東区)【名所旧跡・北九州地区】
738年、時は奈良時代中期、大宰府に左遷された藤原広嗣はその2年後、政権中枢にある玄昉と吉備真備を弾劾するため兵を挙げ、板櫃川(いたびつがわ・北九州市八幡東区)で官軍と対峙しますが、官軍の将・佐伯常人(さえきつねひと)との論戦で大義がないことを指摘されると兵を引き、西へ敗走することになります.....

戒壇院(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
鑑真和上は日本僧の栄叡、普照の要請により743年より日本へ渡航を試みます。しかし弟子の反対や嵐により5度の失敗を繰り返し、753年ようやく渡日に成功します。1回目の渡航計画より11年の月日が流れていました。 九州に上陸した鑑真和上はまず大宰府の観世音寺に入り、初の授戒を行います。翌年.....

観世音寺(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
661年7月、女帝斉明天皇は百済救援のため滞在していた朝倉橘広庭宮で突然崩御します。中大兄皇子はこの母の供養ため大野山の麓に寺院創建の命を出しました。これが観世音寺です。 その2年後「白村江の戦い」に敗れ、防衛のため那の津の「官家」を内陸部に移すことになりますが、その移設の先がこの観世音寺.....

奈良時代の筑後・肥後の農民たちの事(2015年9月6日)【余談】
奈良時代に筑後・肥後で農政改革を行った道君首名(みちのきみおびとな)の功績は間違いなく褒め称えられるべきものなのでしょうが、その功績は農民たちの協力なくしてはなし得なかったのかもしれません。 どんな経緯があろうとも認めるべきものは認め受け入れる。そんな筑後や肥後の農民達の簡潔で柔軟な対応には、 なか.....

豊臣秀吉の博多町割り(1587年)【福岡史伝・戦国】
1587年、島津氏を降し九州を平定した豊臣秀吉は筑前に戻り 「多々良浜の戦」(1569年、大内氏対大友氏)や「島津氏侵攻」(1586年、島津氏対大友氏)の戦いにより、 荒廃した博多を復興するため1587年「博多町割り」を行います。 博多の大商人、神屋宗湛と嶋井宗室もこの博多復興に資.....

平清盛「袖の湊」を築く(1158年~1170年代)【福岡史伝・平安】
正確な年代は不明ですが平安時代の末期、博多に「袖の湊」が築かれます。この港は平清盛が築いたのではないかといわれていますが、 その説が正しいとすれば、1158年、清盛が大宰大弐に任命された以降と思われます。 この任命に前後して起こった「保元の乱」と「平治の乱」で対抗する有力者を倒し権力.....

奈良時代の権力闘争(716年)【福岡史伝・奈良】
奈良時代というと個人的には ほのぼのとしたイメージが強いのですが、かって文豪が書いた「兎角にこの世は住みにくい」という言葉の如く、この時代も他の時代を凌ぐ熾烈な権力闘争が繰り広げられていました。 729年、時の実力者の長屋王が邸宅を朝廷の軍勢に囲まれ自害します(長屋王の変)。これは藤原四兄.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2020.10.14

【記想録】勝龍寺城攻め

2020.10.11

【記想録】本能寺の変を報せた男

2020.9.27

懐良親王終焉之地を追加しました

2020.9.26

男装の漢詩人・原采蘋を追加しました

2020.9.6

名所旧跡に水城西門跡を追加しました

2020.9.4

名所旧跡に小水城跡を追加しました

2020.9.3

マイナーチェンジを行いました

2020.9.2

筑後みやまの平家伝説を追加しました

2020.8.10

船迫窯跡を追加しました

2020.8.7

朝倉の三連水車を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
今の世の法などとして法例をたつる事は、勝負の道にあるべからず
五輪書 -風の巻-





名所旧跡・久留米
 【首名塚】-久留米市大善寺町夜明神社内-



夜明神社内 首名塚

首名塚

道君首名は奈良時代はじめの貴族で、筑後国の初代の国司です。首名は国司として人々に農業の指導や灌漑の便を図るなど、民生の安定につとめました。最初は指導の厳しさに不満もでましたが、しだいに成果が上がるにつれて、名国司として従うものが増えていきました。在任のまま亡くなったため、人々は彼の徳を慕って祠を建て、おまつりをしました。 これが首名塚とも乙名塚とも呼ばれているこの塚です。

首名塚の立札より
首名(おびとな)は筑後や肥後で農政の改革を実施します。法律に詳しかった首名は解り易い箇条書きの法律を発布し農民をそれに従わせます。 農民たちは年寄も若者も「野良仕事もしたことのない役人に田畑の何が解るものか・・・」と不満を言い合ったのでしょうが、1~2年で首名の政策の効果が現れ始めると、みな首名に従うようになったといいます。 そして赴任した5年目に首名は病に倒れ死去します。筑後や肥後の人々は首名に感謝し、神として祀ったといわれます。










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スポットライト人物伝


【秋月種実(あきづきたねざね)】
(1548年~1596年)


父親の秋月文種を大友宗麟の配下、戸次鑑連(べっきあきつら)に討たれたため毛利元就の元に身を寄せます。 そして種実は元就の協力を得てを秋月に帰還し大友氏へ対し抵抗の狼煙を挙げます。 1567年の「休松の戦い」では父の仇・戸次鑑連に奇襲をかけ大混乱に落としいれ一矢報います。 種実は大の大友嫌いだったようで、毛利元就が筑前より撤退すると次に島津氏に属し大友氏に徹底抗戦します。 しかし豊臣秀吉の大軍が大.....[全文を表示]


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