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親魏倭王印はどこにある?(もう一つの金印が発見されれば!!)【わかっていない事】
西暦238年、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した倭王の卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号を与え金印を授けます。中国の史書では倭国が受けた金印はこの「親魏倭王」印と後漢の時代に送られた「漢委奴國王」印の二つだけになり、後者は江戸時代に現在の福岡県の志賀島で発見されています。そしてもし前者の「親魏倭王」印が発見.....

金印の「委」は「倭」の略字?(委字は倭字を略したる者と相見えん!?)【わかっていない事】
「委字は倭字を略したる者と相見えん」これは亀井南冥の金印鑑定書に書かれる言葉になります。『「漢委奴国王」印の「委」という文字は「倭」の人偏を略したものと思われる』といった意味になります。 金印の事が記載される後漢書には「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀(西暦57年 倭の奴国 貢を奉じて朝賀す)」と書.....

漢委奴国王印の鈕は駱駝?(金印の取っ手は蛇ではなかった)【意外な話】
金印「漢委奴国王」の鈕(ちゅう・印のつまみの部分)は駱駝(らくだ)を蛇に改造したものではないかという説があるようです。言われてみれば蛇というよりは駱駝に近い様な気がしないでもありません。 中国の各王朝は、地方を治める王族や臣下、豪族部族に印綬を下しますが、このとき相手によって鈕の種類を選んで.....

志賀島と海の中道(2019.10.12)【余談】
福岡の志賀島は砂州で九州本土とつながる陸繋島(りくけいとう)になります。そして志賀島と九州本土をつなぐ砂州が「海の中道」と呼ばれています。写真は「海の中道」から志賀島方向を撮影したもので、後方が九州本土の西戸崎という位置関係になります。 志賀島は「漢委奴国王印」が発見されたことで有名で、この金.....

豊前、筑前、筑後について(2018年12月31日)【余談】
現在の福岡県は大まかに分けて北部と南部の二つの地域に分かれていて、同じ福岡県人でも言葉やイントネーション、文化が微妙に違います。これは佐賀県でも同様のようで、山に隔てられた北部の玄海灘側と南部の有明海側では文化がだいぶ違うと佐賀県人の方から聞いた事があります。このような事は九州以外の他県でもあるのか.....

歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

福岡市博物館「滇王之印」複製品(2016年11月13日)【余談】
福岡市博物館には、「漢委奴国王」印と同じ蛇鈕(蛇を象った取っ手)を持つ金印「滇王之印(てんおうのいん)」の複製が展示されています。 この金印は1957年に中国雲南省石塞山第6号墓で発見された金印で、次のような説明がされています。 [福岡市博物館の説明文] 1957年に中国雲南省石塞.....

大夫(西暦57年頃~)【福岡人物伝】
西暦57年、奴国王の命により後漢に派遣され金印を持ち帰った人物です。中国・南北朝時代の432年頃に記された「後漢書」には「倭の奴国、貢物を奉って朝貢す。使者は大夫と自称す。」とのみ記載されています。大夫とは人名ではなく役職の事の様で、派遣された人物の氏名は伝わっていないようです。.....

「漢委奴国王」の読み方は?(「倭」は「委」から生まれた新漢字?)【わかっていない事】
金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡市博物館のサイトにも「王朝名(漢)の次に民族名(倭)、そして部族名(奴)がくるので、漢ノ委ノ奴ノ国王という読み方が代表的な解釈です」といった事が記載されていま.....

金印はなぜ志賀島で…?その弐(大夫の思惑は?)【わかっていない事】
「金印はなぜ志賀島で発見された?」で金印が志賀島で発見された理由を「金印の刻印が奴国王にとって都合の良くないものだったため」と記述しましたが、抽象的な疑問には幾通りもの説があって良いと思いますので、もう一つの説を載せようと思います。(以下では内容を解かり易くするため「奴国」を「那国」と替えて記述しま.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

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はじめに…お願いと参考書

 
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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
両人対酌すれば山花開く 一杯一杯また一杯
-「山中に幽人と対酌す」-
李白





名所旧跡・筑後地区南部
 【柳川城跡】-柳川市-



柳川城跡

    柳川市大字本城町八八の二番地
    柳川市史跡指定 昭和五十三年五月一日

柳川城は永禄年中(1558~1569)蒲池鑑盛によって本格的な城としてつくられたもので天然の要害である。 水の利を充分にいかした平城で堀をめぐらし扉の開閉によって場内の水が増減出来るようになっていた。
鑑盛の子鑑漣に至り天正八年(1580)龍造寺による数ヶ月に及ぶ攻撃に耐え柳川城攻略を挫折させた。 翌年龍造寺により佐賀に於いて謀殺されその一族もすべて殺害され応永以来の蒲池一族は滅亡した。
天正十二年(1584)大友勢の筑後攻略にも柳川城に一指だも染め得なかった。
天正十五年(1587)立花宗茂が豊臣秀吉の九州平定に際してその功により筑前立花城より十九才で当地にうつされたが 慶長五年(1600)関ヶ原役において西軍にくみしたため在柳わずか十三年にして解任された。 この後に岡崎城主田中吉政が筑後一円三十二万石の領主として入国し柳川居城とするに及び石垣を更に高くし 天守を築き従来にも増して防備を厳重にした。
戦国動乱の二度に及ぶ攻撃にも陥落しなかった本城はここにおいていよいよ天下の名城としての名声をたかめた。
当時人々が(柳川三年肥後三日肥前久留米は朝茶の子)と言ったのは柳川城の堅固さを如実に物語ったものといえよう。
元和六年(1620)田中吉政の子忠政に後継なく断絶したため奥州棚倉一万石より 十二万石の領主として立花宗茂が再度当地に入国した。 以来明治維新を迎えるまで二百五十年間立花藩の居城であった。 明治五年(1872)正月十八日夕刻火を発し慶長以来威容を誇った天守閣も一夜にして消失した。
石垣については明治七年(1874)の台風により海岸堤防が決壊したためその補強に転用された。
昭和三年(1928)のかい開田後柳川商業高等学校(現在の柳川高校) 柳城中学校がたてられ現在に至っている。
今は古城を偲ぶ面影はさらになく  わずか開田を免れた天守閣跡のみとなり時代の要請にこたえたとはいえ往時を懐古すれば興衰のはげしさを物語るものといえよう。


柳川市教育委員会
柳川城跡



柳川藩主立花氏12万石の本拠となっていた平城跡。 永禄年間(1558~1569)蒲地鑑盛入道宗雪が、 支城として築いたのがはじまりと伝えられています。 天守閣の高さは、10丈7尺5寸1分(約35m)、石 垣の高さは4間1尺5寸(約8m)、天守閣の棟には鯱 があり、その目は金色に輝いていたというほどの栄 華をきわめた名城でしたが、明治5年に焼失。現在、 は柳城中学校の校庭の一隅に小丘と石垣の一部を残 すのみとなっています。

(昭和53年5月柳川市文化財史跡に指定)



 柳川城は永禄年中(1558~1569)蒲池鑑盛によって、近世の城郭の基礎となるもの が整備され、蒲池氏が滅んだ後に、天正15年(1587)立花宗茂が入城しました。  その後、慶長5年(1600)関ケ原の役に功をたてた岡崎城主田中吉政が、筑後一円 の領主として入城すると、天守閣を備えた本格的な近世城郭を築きました。天守閣は 約8mの石垣の上に築かれ、5層からなり、高さは約35mであったといわれています。 本丸・二の丸の外周には城湟がめぐらされ、現在一部は川下りコースとして利用され ています。  戦国の動乱の2度に及ぶ攻撃にも陥落しなかった柳川城は、水の利を生かした名城 として知られ、田中氏の断絶後は、元和7年(1621)立花宗茂が再び城主となり、以 後、立花氏10万9千石の居城として、明治維新を迎えます。  しかし、明治5年(1872)1月18日、この天下の名城も失火により焼失し、石垣も 海岸堤防の補強に使用されるなど、現在は、柳城中学校の校庭の一隅に小丘と石垣の 一部を残すのみとなっています。

(昭和53年5月柳川市文化財史跡に指定)


水郷柳川には城址の他、立花家別邸だった「御花」や北原白秋の生家跡などの観光名所があります。











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スポットライト人物伝


【栗山大善(くりやまだいぜん)】
(1591年~1652年)


黒田官兵衛の信頼の厚かった栗山利安の息子。 栗山大善は第二代藩主の座に黒田長政の長男の忠之を就けますが、 その後、何かと行動に問題のある藩主・忠之との間に軋轢を生じ収拾不可能となると幕府に訴え出ます。 幕府は徳川家と黒田家との関係を重視し大善を南部藩預けとし、忠之の寵臣を高野山への追放し事を収めました。 これが「黒田騒動」ですが栗山大善は南部藩で余生を過ごし20年後に没することになります。 この時.....[全文を表示]



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