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磐井の乱(527年)【福岡史伝・弥生・古墳】
継体天皇は527年、対新羅戦のため任那に近江毛野(おうみのけな)率いる兵6万を送ろうとしますが、筑紫国造の磐井が乱を起こしこれを阻みました。 これは「新羅からの内応要請」や「朝鮮半島での戦役の負担への反発」などが理由とされています。 磐井は肥後と豊後を押さえ、朝鮮からの朝貢船を奪います。 これ.....

弥生・古墳時代(中国文献に記される奴国と三国朝鮮へ)【一夜漬け福岡史】
西暦57年、中国後漢の皇帝より奴国王に金印が送られますが、これが文献に残る初めての福岡に関する出来事です。 それから約200年後に書かれた三国志の「倭人の条」には邪馬台国への道筋が記載されその途中の国として 伊都国(いとこく・糸島市)、奴国(なこく・福岡市)、不彌国(ふみこく) など福岡.....

近江毛野の役職は?(「磐井の乱」の近江毛野は将軍それとも使者?)【わかっていない事】
527年、継体天皇の意を受けた近江毛野(おうみのけな)は新羅と戦うため兵6万を率い任那に向かいますが、途中の九州で国造の磐井が乱を起こしこれを阻みます。 日本書紀の継体記によると行く手を塞いだ磐井は近江毛野に「お前は今は使者として来ているが、俺たちは昔、肩や肘をすれ合わしながら同じ釜の飯を喰った仲.....

近江毛野(?~530年)【福岡人物伝】
継体天皇の命で近江毛野は新羅に奪われた地域を取り戻すため任那へ向かいますが、 その途中の九州で国造(くにのみやっこ)の磐井へ出兵の命令を伝えます。磐井はこの命令を拒否し反乱を起こします。 乱は1年半で平定されますが、その後、兵を率い朝鮮に渡った近江毛野の任那復興は上手くゆかず、新羅のみか百済からも攻.....

物部麁鹿火(?~536年)【福岡人物伝】
任那四県割譲の承諾を百済の使者に伝える役目を命ぜられますが、妻の強い制止に従い病を理由にその役を断ります。 「磐井の乱」では継体天皇に命じられ筑紫に出兵し三井郡(みいのこおり、三井郡大刀洗町、久留米市北野町)で磐井を破り乱を平定します。 .....

大伴金村(?~?)【福岡人物伝】
西暦500年代前半から中盤にかけての大和王権の重臣。倭国の朝鮮半島へ影響力が弱まると百済に任那四県割譲を行い、 また「磐井の乱」では継体天皇に物部麁鹿火を討伐軍の将軍に推薦します。 のちに任那四県割譲問題で責められ大和政権の表舞台より去ることになります。 ちなみにこの人物は九州に来た記述はないようで.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2020.10.14

【記想録】勝龍寺城攻め

2020.10.11

【記想録】本能寺の変を報せた男

2020.9.27

懐良親王終焉之地を追加しました

2020.9.26

男装の漢詩人・原采蘋を追加しました

2020.9.6

名所旧跡に水城西門跡を追加しました

2020.9.4

名所旧跡に小水城跡を追加しました

2020.9.3

マイナーチェンジを行いました

2020.9.2

筑後みやまの平家伝説を追加しました

2020.8.10

船迫窯跡を追加しました

2020.8.7

朝倉の三連水車を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
平常心を以 一切の事をなす人を人是を名人と云也
兵法家伝書





一夜漬け福岡史
 【鎌倉時代】-二度の元寇と元弘の乱-

早良区百道の「元寇防塁跡」
この時代には鎌倉幕府の思惑により武藤氏が大宰少弐に任命され赴任します。武藤氏は官位の少弐を名乗り、 平安時代の原田氏に代わり、筑紫の治安を守ることになります。 ただ鎌倉幕府で平氏の流れを汲む北条氏が実権を持つと、原田氏も怡土郡(いとぐん)と秋月に領地を持つことを許されます。 この時に秋月に入った原田氏は地名に倣い秋月氏を名乗ります。

そして1274年、対馬、壱岐、松浦を襲った3万の元軍が博多湾に押し寄せます。 日本側では少弐氏を中心としてこれを迎え撃ちました。
日本の武将は敵の集団に駆け込み「や~や~我こそは○○なり~」と名乗り敵将を求めますが、 元軍の兵士たちからはこの行動にどっと笑いが起こったといわれます。 そして、あっという間に取り囲み日本の武将を倒してしまうといった状況だったようです。 また日本軍の兵士たちも、元軍の炸裂弾や毒矢によって徹底的に叩かれ、大陸各地で戦ってきた元軍の戦法に翻弄されます。 幸いな事にこの戦いを最後に元軍は撤退します。これが「文永の役」です。

しかしこの6年後に元軍は再び侵攻してきました。これが「弘安の役」で兵は「文永の役」の5倍に近い14万人でした。 前回の戦いで元軍の戦法を学んだ武士団は、元軍を水際で食い止める必要性を感じ、 博多湾の海岸線に沿いに地道な努力で石垣を築き元軍を迎え撃ちました。この戦術は功を奏し元軍は博多湾からの上陸を諦め、 松浦(長崎県)に向かいそこから上陸しようとしますが、ここでも日本軍の抵抗に合います。 そしてそこを台風が通過し、元の軍船の大半が転覆、沈没することとなります。

こうして鎌倉幕府は元軍を撃退することができたのですが、 その後、元軍と戦った武士団に分け与える恩賞の手配に苦慮します。 そして「弘安の役」より4年後に鎌倉で「霜月騒動」が起こりますが、この事件の一因が恩賞問題にあったのは間違いないと思われます。 「霜月騒動」は筑前にも波及し、少弐氏の嫡男・経資(つねすけ)が元寇では共に奮戦した弟・少弐景資(かげすけ)の岩門城に兵を送り攻め滅ぼします。 これが「岩門合戦(いわとがっせん)」で、これら一連の抗争で敗れた御家人たちの領地が恩賞に分配されたといわれています。

そして元寇の約50年後に鎌倉幕府は終焉を迎えることになります。 1331年に後醍醐天皇の呼び掛けで「元弘の乱」が起こり、反幕府勢力が各地に蜂起します。 博多でも1333年に菊池武時が起ち鎮西探題を襲いますが逆に少弐、大友軍の味方する北条英時の鎮西軍に討たれます。 この時、少弐、大友両氏は菊池武時と鎮西探題を討つ密約を交わしていましたが、直前で時期尚早と判断し鎮西探題側についています。 最終的にその2ヵ月後、北条英時は少弐、大友、島津の軍に討たれ鎮西探題は滅びますが、 この経緯が少弐氏と菊池氏の間に遺恨を残し、以後、両氏は壮絶な戦いを繰り広げてゆく事になります。

(2012.11.26)








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スポットライト人物伝


【高杉晋作(たかすぎしんさく)】
(1839年~1867年)


長州藩士で吉田松陰の松下村塾に学び、幕府に抵抗するため奇兵隊を創設した人物です。幕府の第一回長州征討後は、 長州藩保守派から逃れるため太宰府五条の酒蔵「中村酒屋」や野村望東尼の「平尾山荘」に匿われています。 のちに筑前勤皇党弾圧の「乙丑の獄」で島流しにされた野村望東尼を救い出し下関に迎えています。


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