■福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!
■名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡
■福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々
■意外な話…それってホント?意外すぎる話。
■よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!
■一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ
■福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要
■名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です
■リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。
■余談…ひとり言的な話です
■更新履歴…アップした日付
■訂正履歴…間違い直しの履歴です
■はじめに…お願いと参考書
2021.1.10
【記想録】島津義久降伏す
2021.1.5
親魏倭王印はどこにある?を追加
2021.1.4
金印の「委」は「倭」の略字?を追加
2021.1.2
「漢委奴国王」の読み方は?に加筆
2020.12.31
【記想録】村重、孝高を禁獄す
2020.12.30
【記想録】摂津播磨離反す
2020.12.27
【記想録】備中高松城の水攻め
2020.12.22
【記想録】孝高の説得術
2020.12.20
【記想録】原田氏の先祖の事
2020.12.19
【記想録】長宗我部信親の最期
門司城の碑
門司城(門司関山城・亀城) 門司城は、最初平知盛が源氏との合戦にそなえて、 長門国目代紀井通資に築城させた といい伝えられている。 寛元二(1244)年、下総前司親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、 鎌倉幕府より豊前国大官職に任ぜられて下向。 のち門司六ヶ郷と筑前国香椎院内などを拝領した。 親房の子孫は地名により門司氏を称し、 門司城を本城に領内に足立・吉志・若王子・三角山・金山の五支代を構えてそれぞれ一族が配置された。 門司氏はその後およそ三百五十年にわたって北九州の地に続いた。 その間、南北朝時代には門司氏も両派に分かれ、 当城には北朝武家方の吉志系門司左近将監親尚か拠り、 一方南朝宮方の伊川系門司若狭守親頼は猿喰城に籠り、骨肉の争いもあった。 室町時代末になると、門司半島は豊後大友氏と大内氏、 大内氏滅亡後はかわって毛利氏が争奪するところとなり当城はその渦中におかれた。 ことに大友・毛利両氏による永禄の門司城合戦は壮絶をきわめ、 ちなみに『後太平記』には 「昔、源平両家此処にて軍せしも 時こそ替れ是にけよも勝てじ」とその戦況を記している。 その後の門司城は、城主も入れかわりながら続いたが、 細川忠興の豊前入国後の元和元(1615)年、 一国一城の令により、およそ四百年におよぶその歴史をとじた。
【黒田如水(くろだじょすい)】(1546年~1604年)荒木村重が信長へ謀反を起こし有岡城(伊丹)に籠もると、黒田官兵衛(如水)は村重の行動を思いとどめさせるため有岡城に入りますが、 そこで1年もの間 拘束されてしまいます。救い出された官兵衛はこの間の土牢生活で、足を患い頭部には瘡の痕が残ったと言われています。 その後復帰し、秀吉へ様々な戦略戦術を献策し天下獲りに大きく貢献します。しかし九州を手中にし、 ほぼ天下平定が現実すると秀吉は中津12万石を官兵.....[全文を表示]