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博多の人魚伝説(消えてなくなった人魚塚)【意外な話】
博多冷泉町にある竜宮寺には人魚の物と言われる骨が安置され、「人魚伝説」が伝えられています。 鎌倉時代の1222年、博多津(冷泉津)で150m(異説あり)に近い巨大な人魚が捕らえられ、櫛田神社に近い浜辺(現在の中洲東側の博多川辺り)に引き上げられたと言われます。その遺骸は近くの寺に埋葬されその寺は竜.....

筑紫広門(1556~1623)【福岡人物伝】
筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と共に肥前東部に追われ養父(佐賀県鳥栖市北部)辺りに居を移したのかもしれません。後に筑紫氏は大内氏に従い、大内氏の滅亡後は毛利氏に同.....

名家衰退(1533年~)【福岡史伝・戦国】
南北朝時代が終わると、今川了俊は帰京の命が下され九州を去ります。代わって九州探題には足利家一門の渋川氏が任命されるのですが、探題と反りの合わない筑前守護の少弐氏は渋川氏と戦いこれを筑前より追います。しかしこの事が、大内氏の九州進出のきっかけとなります。 少弐氏は幕府の命を受け渋川氏を支援する大内氏.....

日本人は勝負事が好き?(2016年12月14日)【余談】
このところIR(Integrated Resort、統合型リゾート)法案で国会が騒がしくなっているようですが、観光客が増え、雇用が増え、税収が増えるのであれば悪くはないのではと、安易ではありますがそう思ってしまいます。外国人観光客も日本の「わび・さび」一辺倒ではどうなのでしょうか、滞在中の一日ぐらい.....

北部九州戦国史(戦国時代)【福岡史伝・戦国】
室町後半から戦国初期にかけては筑前を手中に収め、北部九州で勢力を拡大する大内氏と筑前守護を自負する少弐氏の抗争が激化します。少弐氏は苦戦を強いられ肥前に追われますが、配下の龍造寺氏の活躍でどうにか対面を保ちます。しかし、後に龍造寺氏と反目し、龍造寺氏は大内氏に組します。 ところが、1551年にはそ.....

大夫(西暦57年頃~)【福岡人物伝】
西暦57年、奴国王の命により後漢に派遣され金印を持ち帰った人物です。中国・南北朝時代の432年頃に記された「後漢書」には「倭の奴国、貢物を奉って朝貢す。使者は大夫と自称す。」とのみ記載されています。大夫とは人名ではなく役職の事の様で、派遣された人物の氏名は伝わっていないようです。.....

「漢委奴国王」の読み方は?(「倭」は「委」から生まれた新漢字?)【わかっていない事】
金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡市博物館のサイトにも「王朝名(漢)の次に民族名(倭)、そして部族名(奴)がくるので、漢ノ委ノ奴ノ国王という読み方が代表的な解釈です」といった事が記載されています。.....

金印発見(1784年)【福岡史伝・江戸】
福岡の志賀島は神奈川の江ノ島と同じ「陸繋島(りくけいとう)-砂州で本土とつながる島-」で夏になると大勢の海水浴客で賑わいます。 1784年、金印はこの島の南端、叶の崎で小作人の秀治と喜平によって田んぼの中から発見されます。 金印は甘棠館(かんとうかん、福岡藩藩校)の館長、亀井南冥の元.....

豊臣秀吉の博多町割り(1587年)【福岡史伝・戦国】
1587年、島津氏を降し九州を平定した豊臣秀吉は筑前に戻り 「多々良浜の戦」(1569年、大内氏対大友氏)や「島津氏侵攻」(1586年、島津氏対大友氏)の戦いにより、 荒廃した博多を復興するため1587年「博多町割り」を行います。 博多の大商人、神屋宗湛と嶋井宗室もこの博多復興に資.....

今川了俊の失脚(1395年)【福岡史伝・南北朝・室町】
南北朝が統一(1392年)された三年後、第三代将軍の足利義満は、九州で勢力を伸ばす探題・今川了俊に危険性を覚え帰京の命を出します。 目の上の瘤だった了俊の失脚劇に少弐、大友、島津ら九州の守護たちは大喜びし、 特に「水島の変」で頭首を騙まし討ちにされた少弐氏は、敵(かたき)の了俊が無事.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2020.10.14

【記想録】勝龍寺城攻め

2020.10.11

【記想録】本能寺の変を報せた男

2020.9.27

懐良親王終焉之地を追加しました

2020.9.26

男装の漢詩人・原采蘋を追加しました

2020.9.6

名所旧跡に水城西門跡を追加しました

2020.9.4

名所旧跡に小水城跡を追加しました

2020.9.3

マイナーチェンジを行いました

2020.9.2

筑後みやまの平家伝説を追加しました

2020.8.10

船迫窯跡を追加しました

2020.8.7

朝倉の三連水車を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
驕(おご)りて亡びざる者は、いまだこれあらざるなり
春秋左氏伝





福岡史伝・戦国
 【名家衰退】(1533年~)

南北朝時代が終わると、今川了俊は帰京の命が下され九州を去ります。代わって九州探題には足利家一門の渋川氏が任命されるのですが、探題と反りの合わない筑前守護の少弐氏は渋川氏と戦いこれを筑前より追います。しかしこの事が、大内氏の九州進出のきっかけとなります。 少弐氏は幕府の命を受け渋川氏を支援する大内氏により肥前に退けられます。
九州に地盤の薄い渋川氏にとっては大内氏の支援は不可欠なものでしたが、時が経ち気付いて見れば筑前は大内氏の支配するところとなり、渋川氏は肥前東部の小勢力という立場になっていました。

1533年、渋川義長は一転しこれまでの宿敵、少弐資元と同盟し大内氏に抵抗しますが翌年には大内義隆の軍に攻められ敗死します。以後も探題・渋川氏は存続しますが大内氏の傀儡となり、実質的な探題はにここで終焉を迎えます。
一方、少弐資元は筑前奪回も儘ならず肥前で大内氏に防戦一方となりますが、配下の龍造寺氏の活躍で辛うじて面目を保ちます。そして1534年、資元は大内義隆と和議を結ぶものの2年後には義隆より攻められ多久に逃れそこで自刃します。その後、資元の子・少弐冬尚が後を次ぎますが、配下の内訌により龍造寺氏は少弐氏を見限り大内義隆へ従います。
しかし、豊前・筑前を得て七国の守護となり勢力を誇った大内義隆も1551年には重臣の陶晴賢(すえはるかた)の謀反で自刃しこの世を去ります。その後を陶晴賢の要請で大友宗麟の弟・晴英(義隆の甥)が継ぎ大内義長となるものの6年後には、陶晴賢を破った毛利元就に攻められ自刃し大内氏は滅ぶことになります。
この大内氏の終焉は、龍造寺隆信に攻められた冬尚が自刃し少弐氏が滅亡する2年前の事になります。

その後、肥前では少弐氏に取って代わった龍造寺隆信が戦国大名として頭角を現し、筑前を勢力下に収めていた大友宗麟と対立する事となります。








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スポットライト人物伝


【少弐景資(しょうにかげすけ)】
(1246年~1285年)


少弐資能の三男で、少弐経資の弟。元寇の役では日本軍の中心人物として奮戦しますが、 戦後、鎌倉で「霜月騒動」が起こるとその余波を受け兄・経資に岩門城を攻められ自害します。 現在、那珂川町山田の城山の麓に景資の墓が残っています。


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