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親魏倭王印はどこにある?(もう一つの金印が発見されれば!!)【わかっていない事】
西暦238年、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した倭王の卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号を与え金印を授けます。中国の史書では倭国が受けた金印はこの「親魏倭王」印と後漢の時代に送られた「漢委奴國王」印の二つだけになり、後者は江戸時代に現在の福岡県の志賀島で発見されています。そしてもし前者の「親魏倭王」印が発見.....

金印の「委」は「倭」の略字?(委字は倭字を略したる者と相見えん!?)【わかっていない事】
「委字は倭字を略したる者と相見えん」これは亀井南冥の金印鑑定書に書かれる言葉になります。『「漢委奴国王」印の「委」という文字は「倭」の人偏を略したものと思われる』といった意味になります。 金印の事が記載される後漢書には「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀(西暦57年 倭の奴国 貢を奉じて朝賀す)」と書.....

男装の漢詩人・原采蘋(酒豪の女流詩人)【意外な人物伝】
福岡では幕末維新期に男装の女医・高場乱が登場しますが、一世代前の1798年にもう一人の男装の漢詩人・原采蘋(はらさいひん)が秋月に生まれています。 父親は甘棠館で亀井南冥に学んだ原古処で、秋月藩の儒学者。兄と弟がいましたが、病弱だったため古処は采蘋に期待をかけ、中国地方や九州各地への遊歴に伴います.....

漢委奴国王印の鈕は駱駝?(金印の取っ手は蛇ではなかった)【意外な話】
金印「漢委奴国王」の鈕(ちゅう・印のつまみの部分)は駱駝(らくだ)を蛇に改造したものではないかという説があるようです。言われてみれば蛇というよりは駱駝に近い様な気がしないでもありません。 中国の各王朝は、地方を治める王族や臣下、豪族部族に印綬を下しますが、このとき相手によって鈕の種類を選んで.....

若宮八幡宮狛犬(うきは市)【名所旧跡・朝倉・うきは】
山鹿氏は芦屋釜で有名な芦屋山鹿を出とする博多の鋳物師。太宰府天満宮の麒麟像も山鹿氏によって制作されたといわれます。撰文を書いた広瀬淡窓は福岡の亀井南冥に学び、日田に「咸宜園(かんぎえん)」を創設した儒学者になります。 .....

志賀島と海の中道(2019.10.12)【余談】
福岡の志賀島は砂州で九州本土とつながる陸繋島(りくけいとう)になります。そして志賀島と九州本土をつなぐ砂州が「海の中道」と呼ばれています。写真は「海の中道」から志賀島方向を撮影したもので、後方が九州本土の西戸崎という位置関係になります。 志賀島は「漢委奴国王印」が発見されたことで有名で、この金.....

豊前、筑前、筑後について(2018年12月31日)【余談】
現在の福岡県は大まかに分けて北部と南部の二つの地域に分かれていて、同じ福岡県人でも言葉やイントネーション、文化が微妙に違います。これは佐賀県でも同様のようで、山に隔てられた北部の玄海灘側と南部の有明海側では文化がだいぶ違うと佐賀県人の方から聞いた事があります。このような事は九州以外の他県でもあるのか.....

歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

福岡市博物館「滇王之印」複製品(2016年11月13日)【余談】
福岡市博物館には、「漢委奴国王」印と同じ蛇鈕(蛇を象った取っ手)を持つ金印「滇王之印(てんおうのいん)」の複製が展示されています。 この金印は1957年に中国雲南省石塞山第6号墓で発見された金印で、次のような説明がされています。 [福岡市博物館の説明文] 1957年に中国雲南省石塞.....

大夫(西暦57年頃~)【福岡人物伝】
西暦57年、奴国王の命により後漢に派遣され金印を持ち帰った人物です。中国・南北朝時代の432年頃に記された「後漢書」には「倭の奴国、貢物を奉って朝貢す。使者は大夫と自称す。」とのみ記載されています。大夫とは人名ではなく役職の事の様で、派遣された人物の氏名は伝わっていないようです。.....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

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はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.5.3

【記想録】奔馳角逐の心を消すべし

2022.4.23

【記想録】一飯も竟に終身の感を致す

2022.4.16

【記想録】例えば卒然の如し

2022.4.10

【記想録】徳は才の主

2022.4.4

【記想録】衆は害に陥りて能く勝敗を為す

2022.3.6

【記想録】兵とは国の大事なり

2022.2.23

【記想録】信なくば立たず

2022.2.12

【記想録】その鋒鋩を露すべからず

2022.2.6

【記想録】古城古戦場 背振山

2022.1.8

【記想録】則ち誠聞こえず

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
いつくといふ事悪し
-形にこだわってはいけない、手段はあくまでも結果のため手段である-
五輪書 -水の巻-





わかっていない事
 【宇美町は不彌国?】-「日本書紀」の宇美町の地名由来-

「邪馬台国はどこ?」でも書いたように「魏志倭人伝」に記載されている「不彌(ふみ)国」は民家戸数比較や距離や方角からして 現在の宇美(うみ)町の可能性が高いのですが、「宇美(うみ)町=不彌(ふみ)国」という事を断定できない理由は宇美町に港がないということでした。 しかし、もう一つそれを否定するような記述が「日本書紀」にあるのです。 その内容は「朝鮮より帰還した神功皇后が筑紫で応神天皇を産んだが、人々はその場所を宇濔(うみ)と呼ぶようになった。」というものです。
もしこの事が事実であれば、「宇美」は神功皇后時代以後の呼び名となるわけで、神功皇后時代から100年ほど前の卑弥呼の時代の「不彌国」とは別ものになってしまうのです。何故なら卑弥呼の時代に「宇美(濔)」という呼び名は存在していないことになるからです。

「宇美(うみ)町=不彌(ふみ)国」という立場で考えると「日本書紀」の「宇美(濔)の由来」は真実か否か?神功皇后が応神天皇を産んだ以前に「宇美」は本当に存在しなかったのか?といった謎が深まるのですが、どちらにしても「魏志倭人伝」に記載されている奴国からの距離より「不彌国」が現在の福岡県内にあったのは間違いないようです。 この「不彌国」の所在地が判明するようなものが発見されれば、幻の邪馬台国へもう一歩近づけるのかもしれません。









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スポットライト人物伝


【黒田長溥(くろだながひろ)】
(1811年~1887年)


島津藩主の重豪(しげひで)の十三男で、黒田家に養子として入ります。 開明的な藩主で蘭学を取り入れ中洲には反射炉を建設するなどしています。 しかし1865年の「乙丑の獄」で筑前勤王党の弾圧を行い勤皇派を一掃します。 弾圧の原因はハッキリしていないのですが、 勤王党の過激な一派が長溥の重臣を暗殺した二つの事件が一因であるのは間違いないようです。 結果的にこの弾圧が明治以降、福岡藩に大きな影を落としてい.....[全文を表示]



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