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歴史はむつかしい(2019年4月30日)【余談】
最近時間の合間に勝海舟の談話集「氷川清話(講談社学術文庫)」を読んでいるのですが、海舟の歯切れの良い発言に久し振りに爽快感を感じながら読み進めています。 読み始めての頃は、自分の幕末における知識が間違っていなかったことに安心していたのですが、読み進めるうちに今までに小説やテレビの歴史情報番組から得.....

歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

金印はなぜ志賀島で発見された?(奴国王の思惑は?)【わかっていない事】
江戸時代より金印には贋物説があるですが、その説の根拠の一つに奴国の中心地から遠く離れた志賀島から見つかった不自然さが挙げられています。確かに漢の皇帝より奴国王に送られた金印が、奴国の勢力範囲だったとはいえ、なぜ10㎞近くも離れた島から発見されたのか、誰もが不思議に思うのは自然なことなのかもしれません.....

三国志に奴国の戸数記載(200年代)【福岡史伝・弥生・古墳】
「三国志」の魏書の巻、東夷伝の倭人の条(魏志倭人伝)に邪馬台国への道のりが記載されていますが、 その間の国々の事が簡単に記載されています。それによると各国の戸数は次のとおりになっています。 地名戸数想定人口備  考 対馬国(対馬)1,000余戸6千人.....

漢委奴国王の金印(57年)【福岡史伝・弥生・古墳】
秦の始皇帝が中国を統一したのが紀元前221年で、その「秦」は二代目で倒れ、項羽と覇を争った劉邦が「漢(前漢)」を興します。 漢は200年ほど続きますが、臣下の王莽が一時、政権を簒奪し国名を「新」とします。しかし「新」は人々の支持を得られず倒壊し、 劉邦の子孫、劉秀がこの混乱を収め「漢.....

弥生・古墳時代(中国文献に記される奴国と三国朝鮮へ)【一夜漬け福岡史】
西暦57年、中国後漢の皇帝より奴国王に金印が送られますが、これが文献に残る初めての福岡に関する出来事です。 それから約200年後に書かれた三国志の「倭人の条」には邪馬台国への道筋が記載されその途中の国として 伊都国(いとこく・糸島市)、奴国(なこく・福岡市)、不彌国(ふみこく) など福岡.....

宇美町は不彌国?(「日本書紀」の宇美町の地名由来)【わかっていない事】
「邪馬台国はどこ?」でも書いたように「魏志倭人伝」に記載されている「不彌(ふみ)国」は民家戸数比較や距離や方角からして 現在の宇美(うみ)町の可能性が高いのですが、「宇美(うみ)町=不彌(ふみ)国」という事を断定できない理由は宇美町に港がないということでした。 しかし、もう一つそれを否定するよう.....

狗奴国は「熊野」?「球磨」?(卑弥呼に属せずの「狗奴国」)【わかっていない事】
狗奴国(くなこく)は直接、福岡に関係ありませんが、「狗奴国=熊襲」の場合は間接的に関係してきます。 魏志倭人伝に記載される邪馬台国の敵国「狗奴国」は、熊野国(和歌山県)、球磨国(熊本県)、出雲、美濃地方の豪族など諸説あります。 以下、魏志倭人伝の抜粋です。 「南、邪馬台国に至る。女王の都する所.....

卑弥呼は誰?(百襲媛(ももそひめ)は鬼道につかえる?)【わかっていない事】
「魏志倭人伝」には卑弥呼に関して次のような記述があります。 「 ~前略~ 一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、よく衆を惑わす。この年長大なるも、夫婿なく、男弟あり佐けて國を治む。王となりて以来、見(まみ)ゆる者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し.....

邪馬台国はどこ?(魏志倭人伝の謎)【わかっていない事】
皆さんよくご存知の「三国志」には、「魏書」(曹操の起てた国の史書)という巻がありその中の「東夷伝」のまたその中の「倭人の条」に、邪馬台国までの道筋が記載されています。この「倭人の条」のことを日本では一般的に「魏志倭人伝」と呼び、昔から邪馬台国の所在地論争の元となっています。その道筋を略すると次のとお.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2020.10.14

【記想録】勝龍寺城攻め

2020.10.11

【記想録】本能寺の変を報せた男

2020.9.27

懐良親王終焉之地を追加しました

2020.9.26

男装の漢詩人・原采蘋を追加しました

2020.9.6

名所旧跡に水城西門跡を追加しました

2020.9.4

名所旧跡に小水城跡を追加しました

2020.9.3

マイナーチェンジを行いました

2020.9.2

筑後みやまの平家伝説を追加しました

2020.8.10

船迫窯跡を追加しました

2020.8.7

朝倉の三連水車を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
人の悪を攻むるには太だ厳なることなかれ
-人の悪いところ注意する時は、厳しい言動で責めてはいけない-
菜根譚





一夜漬け福岡史
 【弥生・古墳時代】-中国文献に記される奴国と三国朝鮮へ-

岩戸山古墳の「石人石馬」
西暦57年、中国後漢の皇帝より奴国王に金印が送られますが、これが文献に残る初めての福岡に関する出来事です。 それから約200年後に書かれた三国志の「倭人の条」には邪馬台国への道筋が記載されその途中の国として 伊都国(いとこく・糸島市)、奴国(なこく・福岡市)、不彌国(ふみこく) など福岡県内の都市が紹介されています。 この三国志「倭人の条」は後世の日本人より「魏志倭人伝」と呼ばれ、邪馬台国所在地論争の元となりました。

西暦300年代前後には倭国は共和国内の各国を帰属させ中央集権国家に移行します。
奴国もこの中央集権の波に呑まれ、この頃に倭国の一都市になったものと思われます。 九州北部を吸収した倭国は、次に三国時代の朝鮮へ渡り新羅、百済の間の伽耶(かや・小国家が並立する地域-任那-)に駐屯します。 倭国軍は伽耶諸国や百済と連携し新羅や高句麗と戦いますが、西暦500年代に入った頃より倭国の朝鮮への影響力は徐々に弱まり、 大伴金村が百済に「任那四県の割譲」(512年)を行い。 また九州では朝鮮出兵の兵役負担の不満により磐井(いわい)が「磐井の乱」(528年)を起こします。 そして新羅が伽耶諸国を併合した西暦500年代中頃までには朝鮮半島から撤退したものと思われます。

(2012.11.27)








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スポットライト人物伝


【黒田忠之(くろだただゆき)】
(1602年~1654年)


行動に何かと問題のある嫡男・忠之は黒田藩の後継者から外されそうになりますが、栗山大善の支援によりその立場を守ります。 しかし初代藩主・長政の没後に藩主の座についた忠之は栗山大善と不仲になります。 二人の関係が泥沼化すると忠之はついに大善から幕府へ訴えられます。 改易が相次いでいた時期でもあったため黒田藩も取り潰しの憂き目に合いますが、 幕閣の配慮により大善は南部藩預かりとなりことは収められました。


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