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検索の結果 22件の記事が見つかりました


新羅海賊の入寇(869年)【福岡史伝・平安】
平安初期の800年代、新羅の海賊が度々九州北部に来寇します。これには次のような事情があります。 676年朝鮮統一を果たした新羅はこの頃には衰退期を迎え、地方の王族や豪族が力を持ち始め、各地で反乱が起こります。 このような混乱の中で新羅の海賊の行動が活発化するのです。 博多では869年に2隻の海.....

藤原広嗣の乱(740年)【福岡史伝・奈良】
天然痘の流行で当時の有力者、藤原四兄弟(藤原不比等の息子たちで藤原鎌足の孫にあたる)が立て続けに没すると、 反藤原氏の橘諸兄(たちばなのもろえ)が権力を握ります。 藤原四兄弟の三男宇合(うまかい)の息子、藤原広嗣(ひろつぐ)は、 藤原氏の勢力を盛り返そうとしますが、反藤原勢力の.....

防人と烽の設置(663年)【福岡史伝・飛鳥】
663年、新羅・唐の連合軍の九州上陸を想定し、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)と烽(すすみ)を設置します。 防人とは筑紫の守備のために全国より派遣された兵士のことで、烽とは敵の動向を知らせる狼煙台のことです。 百済を制した新羅と唐は朝鮮半島の平定を優先し、高句麗の攻撃に向かいます。.....

白村江の戦い(663年)【福岡史伝・飛鳥】
倭国が朝鮮半島から撤退して約百年後の、660年百済は新羅・唐の連合軍の攻撃を受け滅亡します。 百済の遺臣の鬼室福信は百済復興のため倭国に救援依頼すると共に、倭国に滞在する百済の王子豊璋の帰国を求めます。 これに応えた中大兄皇子は661年百済復興救援のため豊璋を帰国させると共に兵を送り.....

磐井の乱(527年)【福岡史伝・弥生・古墳】
継体天皇は527年、対新羅戦のため任那に近江毛野(おうみのけな)率いる兵6万を送ろうとしますが、筑紫国造の磐井が乱を起こしこれを阻みました。 これは「新羅からの内応要請」や「朝鮮半島での戦役の負担への反発」などが理由とされています。 磐井は肥後と豊後を押さえ、朝鮮からの朝貢船を奪います。 これ.....

三国動乱の朝鮮へ(300年代~600年代)【福岡史伝・弥生・古墳】
倭国は、西暦300年代に三国時代(高句麗、新羅、百済)の朝鮮へ進出し伽耶に駐屯します。 そして新羅が伽耶諸国を併合した西暦500年代中頃までには朝鮮半島から撤退したものと思われます。 この経緯とその後を年表で表記します。 .....

飛鳥時代(白村江の戦いから大宰府の誕生)【一夜漬け福岡史】
645年「乙巳の変(いっしのへん)」で蘇我氏を倒し政権を奪取した中大兄皇子は 663年、新羅・唐の挟撃にあい滅亡した百済の復興支援するため朝鮮に軍を派遣します。 しかし「白村江の戦(はくそんこうのたたかい)」で新羅・唐の連合軍に大敗を喫したため、 九州の防衛に力を入れる事になります.....

弥生・古墳時代(中国文献に記される奴国と三国朝鮮へ)【一夜漬け福岡史】
西暦57年、中国後漢の皇帝より奴国王に金印が送られますが、これが文献に残る初めての福岡に関する出来事です。 それから約200年後に書かれた三国志の「倭人の条」には邪馬台国への道筋が記載されその途中の国として 伊都国(いとこく・糸島市)、奴国(なこく・福岡市)、不彌国(ふみこく) など福岡.....

「隋書」の秦王国はどこ?(筑紫の東にあった中華風な国とは?)【わかっていない事】
隋の煬帝(ようだい)は日本からの使者・小野妹子が帰国する際に裴世清(はいせいせい)を使者として付けますが、その時の道筋が唐時代初期に書かれた「隋書」に記載されています。 百済を渡り(朝鮮半島の西沿岸を航行し)、竹島(珍島?)に至り、耽羅(たんら・済州島)の北を通る。そして大海の中にある対馬国を経て.....

近江毛野の役職は?(「磐井の乱」の近江毛野は将軍それとも使者?)【わかっていない事】
527年、継体天皇の意を受けた近江毛野(おうみのけな)は新羅と戦うため兵6万を率い任那に向かいますが、途中の九州で国造の磐井が乱を起こしこれを阻みます。 日本書紀の継体記によると行く手を塞いだ磐井は近江毛野に「お前は今は使者として来ているが、俺たちは昔、肩や肘をすれ合わしながら同じ釜の飯を喰った仲.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

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「漢委奴国王」の読み方は?に加筆

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
三十六策、逃ぐるをこれ上計とす
南斉書





名所旧跡・久留米
 【真木和泉史跡】-水天宮境内-




【山梔窩(くちなしのや)について】
真木和泉守保臣先生は同士と共に久留米藩を改革しようとして却ってこの地を南に去る十六○(不明) 水田村(現在の筑後市水田区)弟大鳥居信臣のもとに謹慎を命ぜられた。
その翌年庭の一隅に小さな家を建て、山梔窩と名づけ自炊の生活を送りつ、 付近の子弟を教育し後には久留米から参加する者もあり多くの人材を養成した。 これからの門下生には後には幕末の動乱に活躍し国難に仆れたものが少なくない。 また平野国臣を始め諸国の同士の来訪もあり、これらと連絡して策を練り、 朝廷に上書するなど、この山梔窩は尊皇倒幕の一大策源地となった。 幽居十一年時勢の急迫と共に

           やがて世の春に匂はん梅の花
              かた山里の一重なりとも


一首の和歌を書き残して脱出し、明治維新を目指して、その中心的指導者として活躍した。 この建物は史料により当時のものをこの地に模して建てたものである。

山梔窩の案内板より



真木和泉像

真木和泉守保臣(一八一三~一八六四)は明治維新の中心的指導者である。
水天宮神職の家に生まれ、早く父を失ったが、よく母に仕え、かねてから学問に励み、武道、 音楽にも長じ、藩校明善堂から表彰をうけた。傍らに流れる筑後川は菊池一族の誠忠を語り、 少年の時に愛読した絵本楠公記は尊皇愛国の精神を培い、長じては水戸学を中心に学識を深め、 しかも身をもって実践した。
藩政改革を企ててならず、一時水田に蟄居したが、後に脱出して東奔西走、 国事に盡し諸国の志士から「今楠公」と謳われ、その中心的指導者と仰がれた。
彼は蘭方医工藤謙同と親しく、外国の事情にも通じ久留米の医学刷新に盡し、 久留米藩医学舘の生みの親といわれる。また早くから薩長連合を唱えたが、時到らず、 長洲藩と共に倒幕の軍を起し禁門の変に破れ、同士十六人と天王山に登り辞世の和歌を残して自刃した。

     大山の峰の岩根に埋にけり
               わが年月の大和魂

真木和泉像の案内板より











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スポットライト人物伝


【貝原東軒(かいばらとうけん)】
(1651年~1713年)


秋月藩士の娘で益軒の妻女。1668年に数え年18歳で39歳の益軒と結婚します。書・和歌の他、箏(そう・琴に似た楽器)や胡琴(こきん・中国から伝わった弦楽器)などの楽器にも通じていました。益軒の著作編纂を陰から助け、「女大学」を記述したのは東軒ではないかといった説もあります。益軒が没する前年に63歳で亡くなっています。


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