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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

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新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

2022.11.5

【記想録】人を責むる者は・・・

2022.10.15

【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?

2022.9.18

【記想録】小敵の堅は大敵の擒なり

2022.9.13

【記想録】怒りを以って師を興すべからず

2022.8.27

【記想録】佐々木小次郎の経歴

2022.8.1

【記想録】完戸何某との決闘

2022.7.24

【記想録】夢想権之助の挑戦

2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
両人対酌すれば山花開く 一杯一杯また一杯
-「山中に幽人と対酌す」-
李白





福岡史伝・幕末・維新
 【乙丑の獄】(1865年)

1864年、長州征討を受けた長州藩は一旦恭順を示しますが、 筑前・平尾山荘に逃れていた高杉晋作は同年12月に下関へ戻り挙兵、 翌1月には幕府へ恭順を示す保守派を倒し、幕府への対決姿勢を明らかにします。 これに神経を尖らせた幕府首脳は五卿の元に集まる志士や筑前勤皇党の不穏な行動を突きつけ、 福岡藩に立場を明確にするよう強く迫ったものと思われます。 このような幕府の圧力により1865年6月、藩主黒田長溥(くろだながひろ)の命で筑前勤皇党の藩士は捕縛拘束されます。 そして10月には家老加藤司書以下7名切腹、月形洗蔵以下14名斬首、その他流刑、謹慎は100名以上という処罰者を出し、筑前勤皇党は壊滅します。 以後は佐幕派の野村、浦上、久野の三家老が藩政を執ることになります。 これが「乙丑の獄」といわれる政変で、福岡藩は薩長土にパイプを持つ主だった人材を失うことになります。
そして翌1866年6月には第二次長州征討が行われますが、不参加の藩や離脱する藩が出たことにより幕府は長州と停戦せざるおえなくなり、 翌1867年10月に最後の将軍の徳川慶喜は大政を奉還し、徳川幕府は終焉を迎えます。 これに代わって朝廷と薩長土を中心とする新政府が政権を握ることになりますが、 「乙丑の獄」で新政府への足がかりをなくしていた福岡藩は徐々に苦しい立場に追い込まれて行く事になります。

(2011.7.2)









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スポットライト人物伝


【河野通有(こうのみちあり)】
(1250年~1311年)


伊予の御家人で「弘安の役」に博多湾岸警護に参陣します。 河野の軍は防塁を背に陣を張り元軍に怯るまない姿勢を見せました。 この陣は「河野の後築地(うしろついじ)」と評判になり日本軍の意気高揚につながったといわれます。 また操船術に長けた河野軍は小船で元軍の船に夜襲をかけます。通有は元軍の放った石弓により負傷しますが、 敵将を生け捕りにする武功を挙げたと言われています。



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