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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

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新着情報

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2022.12.4

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2022.9.18

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2022.8.27

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2022.8.1

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2022.7.24

【記想録】夢想権之助の挑戦

2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
畏(おそ)るるは慎しみにおもむく初(はじめ)なり。畏るればつつしみ生ず。畏れざればつつしみなし。
養生訓





福岡史伝・南北朝・室町
 【筑後川の戦い】(1359年)

大刀洗の「菊池武光像」
「針磨原の戦い」から6年、京都で足利尊氏が没すると、勢いづいた南朝方とこれに抗する武家方(北朝方)が筑後川の北側で激突します。 これが、地元では「大原合戦」と呼ばれる「筑後川の戦い」です。 この戦いは「関ヶ原の戦い」「川中島の戦い」と並び日本の三大合戦に挙げられるほど大きな戦いとなりました。 少弐頼尚を中心とする北朝側6万と懐良親王を擁する菊池武光が率いる南朝側4万が激突し、両軍あわせて2万5千の死傷者が出たといわれます。 戦いの終わった菊池軍が山隈城の近くの川で、血のついた刀を洗うと川は真っ赤に染まったといわれています。 この事から、この辺りを大刀洗と呼ぶようになりました。これが現在の三井郡大刀洗町になります。 戦いの結果は北朝の少弐頼尚が大宰府に撤退し、南朝軍が勝利しますが、南朝の懐良親王や菊池武光も負傷し一旦肥後に帰還します。 この戦い以後、少弐家は求心力を失い、2年後には菊池武光に大宰府を奪われることになります。


この戦場となった筑紫平野北部各地には、征西大将軍、懐良親王にまつわる「宮の陣」という地名や「将軍梅」(久留米市宮の陣) 「将軍藤」(小郡市福童)と呼ばれる樹木も残されています。
また、この「大刀洗」は八百年遡ると「磐井の乱」で戦いの場となり、太平洋戦争では「陸軍大刀洗飛行場」が置かれました。

(2011.5.8)









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スポットライト人物伝


【藤原隆家(ふじわらたかいえ)】
(979年~1044年)


平安時代の名門出身の隆家は大宰府へ大宰権帥(だざいごんのそつ、大宰府長官)として赴任中、博多湾に来寇した「刀伊の海賊」と戦い撃退します。 しかし残念な事に10代の頃に花山法皇の袖を矢で射抜いてしまうといった事件を起こしています。 この人の性格と爽快な生き方から後世の人からもっと注目されてよい人物なのですが、 もうひとつ注目されないのはその事件がネックになっているのかもしれません。



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