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2022.12.25
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2022.12.4
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2022.11.5
【記想録】人を責むる者は・・・
2022.10.15
【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?
2022.9.18
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2022.9.13
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2022.8.27
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2022.8.1
【記想録】完戸何某との決闘
2022.7.24
【記想録】夢想権之助の挑戦
2022.7.3
【記想録】行蔵は我に存す
水城大堤之碑
水城の東西端には門が設けられました。ここはその東門跡で、都から大宰府への玄関口でした。 大宰府に赴任する官人たちは、水城の門で出迎えを受け、また送り出されました。実際、寛弘2(1005)年に大宰大弐として赴任した藤原高遠は、水城で大宰府の印と鍵を受けとり、また、天平2(730)年に大宰帥大伴旅人が帰京した時は、水城で役人たちに見送られています。 東門は、藤原高遠の和歌に「岩垣の水城の関」と詠われていることから、門の両側には石垣が築かれていたと考えられます。その後、寿永2(1183)年までは、門が存在したようですが(『平家物語』巻第8)、元寇のことを記した『八幡愚童訓』には、礎石があるのみと記され、13世紀後半には、門は無くなっていたことがわかります。その後もここは交通の要衝であったことから、大きく改変され、江戸時代には街道脇に礎石が1個残るのみとなっていました。 平成26(2014)年に一部発掘調査を行いましたが、撹乱されており、門の遺構は残っていませんでした。しかし、門外の脇に造られたと推測されるL字形に曲がる溝が確認されたことや土塁との位置関係などから、門は礎石があるこの付近にあったと推測されます。
平成28年12月 太宰府市教育委員会
【母里太兵衛(ぼりたへえ)】(1556年~1615年)黒田家の武将。「黒田節」は太兵衛が大杯の酒を呑み干し福島正則より名槍「日本号」を受け取った出来事を唄にしたものです。 太兵衛はこの唄で詠われた「日本号」を朝鮮役で太兵衛の窮地を救った後藤又兵衛へ送ったといわれます。 そして「大阪夏の陣」で又兵衛が討死すると、太兵衛もまた時をおかず死去しています。
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