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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

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福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

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新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

2022.11.5

【記想録】人を責むる者は・・・

2022.10.15

【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?

2022.9.18

【記想録】小敵の堅は大敵の擒なり

2022.9.13

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2022.8.27

【記想録】佐々木小次郎の経歴

2022.8.1

【記想録】完戸何某との決闘

2022.7.24

【記想録】夢想権之助の挑戦

2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし
水戸光圀





わかっていない事
 【「筑前宮崎村」はどこにある?】-福岡と熊本の宮崎兄弟は同族?-

熊本県荒尾市 宮崎兄弟の生家
福岡の宮崎兄弟といえば「秋月の乱」に中心人物として参加した宮崎車之助、今村百八郎、宮崎哲之助の三兄弟の事ですが、熊本にも明治期に宮崎兄弟が登場します。 その次男の宮崎八郎は中江兆民らと親交を持ち自由民権活動に奔走、そして西南戦争で西郷軍に参加し八代で戦死します。 また弟たち民蔵、彌蔵、寅蔵(滔天)らは孫文を支援し中国革命に深くかかわります。 孫文も訪れたことのあるこの兄弟たちの育った生家は現在も荒尾市に残り観光名所となっています。
ところでこの宮崎兄弟の生家の案内板には「宮崎家の祖は筑前御笠郡宮崎村の住人で・・・」 と宮崎家の祖が筑前にあったことが記載されています。 しかしこの「筑前御笠郡宮崎村」は現代地図や筑前古地図をいくら探してみてもそれらしい地名が見つからず、また貝原益軒の「筑前国続風土記」にも宮崎村は登場しないのです。 ただ現在の筑前町の依井(よりい)には字(あざ)宮崎という住所があり、もしかしたらここが八郎や滔天ら兄弟の祖が住んだ宮崎村なのかもしれません。 そしてこの依井より北東へ6㎞ほどのところに秋月城があり、依井は黒田秋月藩の領内だったということから「秋月の乱」の中心人物・宮崎兄弟と荒尾の宮崎兄弟は同族の宮崎氏だった可能性が出てくるのです。 ただし筑前古地図ではこの筑前町依井という土地は「御笠郡」ではなく隣の「夜須郡」になっており、宮崎兄弟の生家の案内板の内容と異なっています。 「筑前、肥後の宮崎兄弟同族説」はなんの証拠もないあくまでも想像の域を出ない話なのですが、真実を追う事とは別に、このような想像力を逞しくして考える事が歴史を探求する原動力となるのかもしれません。


余談になりますが、ここで取り上げた宮崎滔天は、飯塚の石炭王・伊藤伝右衛門の妻・柳原白蓮と駆け落ちした宮崎龍介の父親になります。
この白蓮事件で絶縁状を受けた伊藤伝右衛門は「末代まで一言の弁明も無用」と2人の仲を妨げるようなことはありませんでした。そして白蓮が10年ほど生活した旧伊藤伝右衛門邸は現在では飯塚市の観光名所となっています。









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スポットライト人物伝


【平貞能(たいらさだよし)】
(?~?)


鎮西反乱が起こると1181年、筑紫に派遣されその翌年には乱を平定し一旦帰還しますが、都は木曽義仲の軍が迫り大混乱の中にありました。貞能は「都に留まるべき」と主張しますが、平家一門は西へ落ちて行き、仕方なく貞能もその後を追って大宰府に入ります(平家物語では東国に向かい宇都宮朝綱の元に身を寄せたとされています)。しかし、今度は豊後の緒方惟義が九州退去を勧告し兵3万で大宰府に迫ります。一門は着の身着のま.....[全文を表示]



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