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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

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余談…ひとり言的な話です

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新着情報

2022.12.25

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2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

2022.11.5

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2022.10.15

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2022.9.18

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2022.9.13

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2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
朝夕の食事はうまからずとも褒めて食うべし
伊達政宗





福岡悲話
 【お綱門の事】(江戸時代)-福岡城内での悲劇-

福岡城には戦前まで「お綱門」という門が残っていたそうです。第二代藩主・忠之の頃、城に乱入しようとした女人が門番に斬られ、この門まで辿りつき絶命したといわれるいわく付きの門になります。その女人の名が「お綱」でこの事件の頃からこの門は「お綱門」と呼ばれるようになりました。そして巷では「お綱門に触ると高熱が出て死んでしまう」などといった噂が広がり、夜警の兵卒もお綱門方面の巡回を非常に怖れたと言います。

この事件の発端は藩主・忠之が参勤交代の帰りに大阪の芸妓を連れ帰り城内に住まわせたことから始まります。この事に気分を害した忠之の奥方からの依頼で重臣たちは「ほどほどに・・・」と幾度も忠之を諌めます。忠之は仕方なく近臣の浅野四郎左衛門へこの芸妓を譲り渡しますが、四郎左衛門はこの芸妓を城内の邸宅に住まわせ、正妻のお綱と幼い二人の子供を馬出(まいだし・福岡城より北東4㎞)の別宅に移します。面目を失くしたお綱はひたすら耐え忍ぶ日々を過ごすのですが、四郎左衛門は賄いを入れなくなるどころか別宅に顔をも出さなくなります。この仕打ちに遂に耐え切れなくなったお綱は二人の子供を刺し殺し、長刀を持ち出し夫のいる福岡城へ乱入することになるのです。

事情が事情なので事件に関わった人々は多くを語らず真実のところは伝わっていない様で、そのためか、この話には多くの脚色がなされ怪談話として物語風に伝わっているのかもしれません。
ただ夫から遠ざけられた女性が二人の幼い我が子を手に掛け、長刀を持って乗り込んだ福岡城で斬られたのは事実の様です。馬出には母子三人の墓石が今も残っているという事です。









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スポットライト人物伝


【豊臣秀吉(とよとみひでよし)】
(1537年~1598年)


織田信長の部下として頭角を現した秀吉は、信長の死後その領地をほぼ継承し、四国を手中に収めると次に九州平定に着手します。 そして1587年に島津義久を降すと筑前へ戻り、「博多町割」と呼ばれる復興を行います。 権力掌握後の秀吉に対しては様々な評価がありますが、海外貿易を重視する秀吉に対する博多商人たちの期待と信頼の気持ちは大きなものだったと思われます。



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