『福岡史伝』はリニューアルしました。新ページはこちらからどうぞ!!

旧ページは数ヶ月ほどで閉鎖いたします。これからも『福岡史伝』をよろしくお願いいたします。





記事検索 






目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

2022.11.5

【記想録】人を責むる者は・・・

2022.10.15

【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?

2022.9.18

【記想録】小敵の堅は大敵の擒なり

2022.9.13

【記想録】怒りを以って師を興すべからず

2022.8.27

【記想録】佐々木小次郎の経歴

2022.8.1

【記想録】完戸何某との決闘

2022.7.24

【記想録】夢想権之助の挑戦

2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
柔能(よ)く剛を制し、弱能(よ)く強を制す
三略





わかっていない事
 【「漢委奴国王」の読み方は?】-「倭」は「委」から生まれた新漢字?-

亀井南冥「金印鑑定書」
金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡市博物館のサイトにも「王朝名(漢)の次に民族名(倭)、そして部族名(奴)がくるので、漢ノ委ノ奴ノ国王という読み方が代表的な解釈です」といった事が記載されています。
この説でひとつ引っ掛かるのは「倭」が「委」になっていることです。一般的に、これは「イ(にんべん)」が略されたものと考えられているのですが、実際「倭」という漢字が誕生したのがどうも金印が製造された後の事ではないかといった事が考えられるのです。
具体的に説明すると、中国統一後の時代は

秦(BC221-BC206)

漢(BC206-8)

新(8-23)

後漢(25-220)

三国時代(220-280)

晋(265-420)

五胡十六国(304-439)

南北朝(宋・北魏)(439-589)

と変遷するのですが、この中の後漢の初代皇帝の時代に金印は送られています。そして「倭」という文字が載る書物、三国志の「倭人の条」は晋の頃に書かれ、金印の事が記載される「後漢書」は南北朝時代の南朝・宋の時代に書かれています。この二つの書以外にも「論衡(ろんこう)」というものがある様ですが、こちらも金印が奴国王に送られた同時期か、それ以降に書かれたものの様です。また「漢書」にも「倭」は記載されているようですがこちらも後漢に書かれた書物になります。このように金印が製造される以前(西暦57年以前)に「倭」という文字は見当たらない様なのです。(調査不足かもしれません。もしあったら申訳ありません。)
またネットで調べたみたのですが、「倭」という漢字は「日本」ということ以外の意味を持っておらず、東方の島国を表すために創作された文字に違いない様です。これ等の事より、「倭」は後漢以降に派生した文字の様な気がしてならないのです。もしかしたら公文書を管理する後漢代の学者が「委」に単に「イ(にんべん)」を付け足して作った新漢字なのかもしれません。
この様な考えからすれば、「倭」を略して「委」と刻んだのではなく、金印に刻まれた「委」が先で、何らかの誤解が起こり「イ(にんべん)」を付け足したという順番が考えられるのです。

以下に根拠のない想像のみの説を書いてみます。
金印「漢委奴国王」は「漢の委任した奴国王」という意味で彫られたものでしたが、その判を見た後漢の歴史家が「委」を民族名と勘違いし、文章に頻繁に使用される「委」を民族の固有名詞として扱うのは差し障りがあると考え「イ(にんべん)」を付加し当て字を作ります。後代の史家はこれに倣い、日本の事を「倭」と記述したのでは?
こんな事を推測していると「カン・イ・ナコクオウ(漢の委任した奴国王)」という読み方も一説として有りなのではと感じるのですが・・・。

元の時代に書かれた宋史にも「自後漢始朝貢(後漢に始めて朝貢してから)・・・」と書かれ、少なくとも元の時代の史家は中国と倭の関係は後漢の時代からと認識していたようです。後漢以前に公式な接点がなかったと言う事は「倭」という文字は後漢以降に派生した可能性が少なくない事を物語っているのかもしれません。

たぶんこの説は、素人歴史ファンから過去に挙がっているのかもしれません。正誤は別にして普通に読めばそう読めてしまうのですから・・・

写真は福岡市博物館に展示される亀井南冥の「金印鑑定書(複製)」です。ここには『唐土し書。本朝を倭奴国と省之は委字ハ倭字を略したる者と相見えん』と書かれ、内容は『中国の史書には日本を倭奴国とする。この金印の「委」は「倭」を略したものと考えられる。』といった意味だと思われます。









福岡史伝へのアクセスにはこのQRコードをご利用ください
https://www.2810w.com


スポットライト人物伝


【立花道雪(たちばなどうせつ)】
(1513年~1585年)


大友氏の猛将で、反旗を翻した立花鑑載(たちばなあきとし)を降して立花山城に入場するまでは戸次鑑連(べっきあきつら)の名で知られています。 毛利氏と連携した筑前の秋月、高橋、筑紫氏らが抵抗の兵を挙げると大友軍の中心武将として戦い、 また肥前の龍造寺氏、中国の毛利氏の侵攻を防ぐ活躍をします。 若い時に雷に打たれ足が不自由だったため戦場では輿に乗って指揮をとったといわれています。



このページは ClubTwinHut が運営しています



© 2011 福岡史伝