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■はじめに…お願いと参考書
2022.12.25
【記想録】是れを過ちと謂う
2022.12.4
【記想録】冷眼にて人を観る
2022.11.5
【記想録】人を責むる者は・・・
2022.10.15
【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?
2022.9.18
【記想録】小敵の堅は大敵の擒なり
2022.9.13
【記想録】怒りを以って師を興すべからず
2022.8.27
【記想録】佐々木小次郎の経歴
2022.8.1
【記想録】完戸何某との決闘
2022.7.24
【記想録】夢想権之助の挑戦
2022.7.3
【記想録】行蔵は我に存す
月形洗蔵幽閉の地の碑
【月形洗蔵幽閉の地の碑】 月形洗蔵は禄高百石の福岡藩士で天下にその名を知られて平野国臣らと共に明治維新の勤皇の志士である。 祖父質は儒学者として名をなし、父深蔵は辺防之策を著して海防の急であることを説いた憂国の士である。 このような家系に文政十一年(一八二八)五月五日に生まれた洗蔵は実名詳(つばら)と云い幼くして学問を好み のち優れた兵学者となったが、尊王の志篤く万延元年五月藩主黒田長溥の参勤交代に際し、 王政復古をめざしての藩政の改革こそが急務で参勤の時に非ずとの建白書を提出した。 このため藩政を妨げた罪により捕らえられ家禄は多く没収されて、中老立花吉右衛門、 同家臣松尾富三郎預けとなり立花の知行所御笠郡古賀村○(不明)伯五三郎宅に牢居の身となった。 獄中では終日端座して書を読み、或は近在の子弟に学問を教えることを常とし、 元治元年五月罪を赦されると家禄も複した。 同年秋、幕府の長州征伐が起こり、長州藩士高杉晋作が福岡に難をさけた時には同志と謀りこれを平尾山荘に匿った。 十二月には藩命により長州へ渡り、征長軍解兵の重大条件である五卿遷座の件で大宰府説をもって五卿の同意を得、 その実現に全力を尽くし、併せて筑前藩が推進中の征長軍解兵、薩長二藩の融和に協力した。 然るに、藩内佐幕派の台頭により六月身柄を一族中預けとなって九月には桝木屋の極に下り、 終に十月二十三日同志と共に斬首にあいこの世を去った。 明治丗一年七月特旨を以て正四位を贈叙される。 法号顕忠院心誉帰道居士 墓は少林寺(福岡市)にある。 昭和六十二年八月吉日建之 元福岡大学教授井上 忠 撰 発起人松尾 勝則 仝三沢 鷹次郎 筑紫野市立歴史民族資料館長武藤 久雄 書 「月形洗蔵幽閉の地」の碑の銘板より
【近江毛野(おおみけな)】(?~530年)継体天皇の命で近江毛野は新羅に奪われた地域を取り戻すため任那へ向かいますが、 その途中の九州で国造(くにのみやっこ)の磐井へ出兵の命令を伝えます。磐井はこの命令を拒否し反乱を起こします。 乱は1年半で平定されますが、その後、兵を率い朝鮮に渡った近江毛野の任那復興は上手くゆかず、新羅のみか百済からも攻められ窮地に陥ります。 この失策を理由に帰還を促されますが、すぐには戻らず二度目の命令でようやく腰を.....[全文を表示]
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