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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

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新着情報

2022.12.25

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2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

2022.11.5

【記想録】人を責むる者は・・・

2022.10.15

【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?

2022.9.18

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2022.9.13

【記想録】怒りを以って師を興すべからず

2022.8.27

【記想録】佐々木小次郎の経歴

2022.8.1

【記想録】完戸何某との決闘

2022.7.24

【記想録】夢想権之助の挑戦

2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
心の正邪、気の強弱は、筆画之を掩(おお)うこと能わず
-心の正悪、気の強弱は筆跡に現れ、これを覆い隠す事はできない-
言志録





福岡史伝・鎌倉
 【岩門合戦-霜月騒動-】(1285年)

那珂川町の「岩門城跡」(城山)
「弘安の役」から3年後の1284年、北条時宗が病死すると鎌倉で御家人の安達泰盛と得宗家執事の平頼綱の確執が激しくなります。 翌1285年11月、両者間で小競り合いが起きそれが戦いまでに発展します。 そして安達泰盛が敗れると一族および安達派の御家人は次々と攻められ討ち死に自害して行きます。 これが「霜月騒動」ですが、この事件は地方にまで拡大し常陸、信濃、播磨などで安達派の人々が粛清されます。 筑前では安達泰盛の子、安達盛宗が博多で少弐経資に討たれ、 経資の弟の少弐景資も安達派だったため岩門城(いわとじょう)に籠りますが経資はこちらにも兵を送り城を攻め落とし、 景資を自害させます(「岩門合戦」)。 そして鎌倉幕府はこれら粛清された御家人たちの所領の一部を元寇の恩賞として配分したといわれます。


ところで「霜月騒動」で自害した安達泰盛という人は文化人の間でも名の知れた人だったようで、吉田兼好は「乗馬の達人」として取り上げ、 一遍上人は「大きな人」と評しているようです。 また「蒙古襲来絵詞」で有名な肥後の竹崎季長はこの絵巻の中に少弐景資、安達盛宗、安達泰盛を描かせており、 恩賞を直訴した安達泰盛からは海東郷の地頭に任じられたことも記載しています。 そしてこの絵巻の最後に「永仁元年(1293年)二月九日」と書き入れています。 この1293年という年は「霜月騒動」の仕掛人、平頼綱が滅ぶ「平禅門の乱」の起こった年でもありました。

(2011.7.16)









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スポットライト人物伝


【藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)】
(?~740年)


藤原広嗣は藤原鎌足の曾孫に当たります。 当時の朝廷内で有力者だった父親や伯叔父たち(藤原四兄弟)が天然痘で次々に死去すると脱藤原政権を目指す橘諸兄が台頭します。 諸兄は唐留学の経験を持つ玄昉や吉備真備を抜擢しますが、逆に藤原氏の中心人物となった広嗣は大宰府に左遷されます。 これに憤慨した広嗣は大宰府で玄昉や吉備真備を弾劾するために軍を起します。しかし北九州で朝廷軍に破れ、後に唐津で斬られることにな.....[全文を表示]



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