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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

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はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

2022.12.4

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2022.9.13

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2022.8.27

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2022.7.24

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2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
柔能(よ)く剛を制し、弱能(よ)く強を制す
三略





わかっていない事
 【親魏倭王印はどこにある?】-もう一つの金印が発見されれば!!-

西暦238年、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した倭王の卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号を与え金印を授けます。中国の史書では倭国が受けた金印はこの「親魏倭王」印と後漢の時代に送られた「漢委奴國王」印の二つだけになり、後者は江戸時代に現在の福岡県の志賀島で発見されています。そしてもし前者の「親魏倭王」印が発見される事になれば、その地が幻の邪馬台国である可能性が非常に高くなるのです。

三国志の倭人の項ではこの「親魏倭王」印の事が次のとおり書かれています。
今以汝為親魏倭王假金印紫綬装封帯方太守假授汝
今、汝(卑弥呼)を以って「親魏倭王」と為し、金印紫綬を装封(包装封印)して帯方太守へ送り汝に与える

ここには「親魏倭王と為し」と書かれているのみで、この金印に「親魏倭王」と刻印されていたかは不明です。ただ「親魏倭王」と任命されたからには刻印も「親魏倭王」であった可能性は低くはないと思われます。もしもそうであったならば、印の文字構成が「王朝名」+「民族名」+「部族や国名」という定石には例外があるとなるわけで、刻印の文字には王朝、民族、部族、国名の他に形容詞や動詞が入る可能性が出てくるのです。

もし「親魏倭王」印が発見されることがあれば、邪馬台国の所在地ばかりではなく、「漢委奴國王」の読み方にも大きな影響を与えるのかもしれません。 しかし三国志「親魏倭王」印の記事には假(仮)と書かれており、一旦は帯方太守の劉夏の元に送られたのはまずは間違いなのでしょうが、その後に邪馬台国まで無事に届けられたのかは、残念ながらそこには記載されていない様です。









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スポットライト人物伝


【奴国王(なこくおう)】
(西暦57年頃~)


倭国の最南端にあった国の王で、西暦57年に「大夫(だゆう)」という役職の使者を後漢に派遣します。 これに対し当時の皇帝であった光武帝は金印を送りますが、これが江戸時代に志賀島の田地より掘り出され、 現在は福岡市博物館に所蔵されている「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」印になります。



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