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【筥崎八幡宮】(福岡市東区箱崎)
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【大社 筥崎宮】
祭神/応神天皇(八幡大神)
神功皇后、玉依姫命
例大祭/九月十五日
筥崎宮は醍醐天皇の延長元年(九二三年)に創建され、延喜式神名帳に八幡大菩薩筥崎宮一座名神大社とある。宇佐・岩清水両宮と共に日本の三大八幡として朝野の崇敬あつく、特に鎌倉時代以降は武神として武家の信仰をあつめた。
なお、「敵国降伏」の宸翰(しんかん)を揚げる楼門は伏敵門として有名である。
●国指定重要文化財
一、本殿・拝殿 | 天文十五年(一五四六年)(太宰大弐)大内義隆再建 |
一、楼門 | 文禄三年(一五九四年)(筑前名島城主)小早川隆景造営 |
一、石造一ノ鳥居 | 慶長十四年(一六〇九年)(黒田藩主)黒田長政建立 |
一、石燈籠一基 | 観応元年(一三五〇年)在銘 |
| 天正十五年(一五八七年)千利休寄進 |
●特殊神事
玉取祭(玉せせり 一月三日)
社日祭(お汐井とり 春秋二季の社日)
仲秋大祭(放生会 九月十二日~十八日)
御胞衣祭(なまこ餅つき 十二月三十一日)
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筥崎宮の案内板より
「放生会(ほうじょえ)」は「博多どんたく」、「博多祇園山笠」と共に福岡の三大祭りとされています。祭りの期間は参道に数えられないほどの露店が並び、各地から沢山の人たちが訪れます。
「博多どんたく」や「博多祇園山笠」は「動の祭り」といわれるのに対し、この「放生会」は「静の祭り」といわれ日頃の生きるための殺生を戒め、捕獲した生き物を解き放つ行事などが行われます。
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【利休寄贈灯籠】(福岡市東区筥崎宮境内)
楼門の先には本殿があり、向かって右手の傍らに南北朝時代の燈籠(石燈籠一基)が建っています。これは「博多町割り」の時、豊臣秀吉が筥崎宮参道脇で催した「箱崎茶会」に呼ばれた千利休が寄贈したものといわれています。
通常時の参拝は楼門で行いますので、この燈籠を間近で見学することはできませんが、楼門から燈籠上部を僅かに窺うことが可能です。
また「放生会」際は楼門内が開放され参拝できるようですので、利休寄贈燈籠を見学されたい方は「放生会」の期間に合わせて参拝されてみてはいかがでしょうか。
千利休に関する史跡はこの燈籠の他、筥崎宮より南西約500m程の所にある九州大学医学部敷地内に「利休釜掛の松」という松の木が残っています。
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【蒙古碇石】(福岡市東区箱崎宮境内)
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【蒙古軍船碇石】
福岡県指定 文化財
文永十一年(西暦一、二七四年)十月二十日 蒙古軍三万は、九百隻の艦船に乗って博多に迫り、終日わが軍と激戦を交え、本宮も兵火によって、焼失したのであったが、翌二十一日朝には、意外にも湾内から姿を消してしまった。
世上これは神風によるものだという。
古来博多付近には蒙古軍船の碇石と称するものが十数本あり、肥前から壱岐にかけても五本ほどあって、いずれも海中から引揚げられたものであるが、場所がら歴史的記念物であるとして珍重されてきた。
この碇石は博多港中央波止場付近の海中から引揚られた六本中の一本であって、石質は赭色凝灰岩である。
この種の石材は蒙古軍の造船地であった朝鮮全羅南道興南方の天冠山に求めることができる。
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筥崎宮境内「蒙古軍船碇石」の案内板より
碇石の後ろに見える石垣は、西南高校にある元寇防塁を一部移設展示したものです。
【長者原の戦い復興の碑】(粕屋町長者原)
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 | 「復旧の碑」と「長者原古戦場の標」 |
復旧の碑
征西将軍宮懐良親王、正平十七年1362(貞治元年(607年前)十月御所の陣に陣し肥後守菊池武光公に随い一万四千を率い大宰府を発し 九州探題氏経等一万八千豫め筑前に至り十月三日此の地一帯の長者原に両軍相対陣し四日黎明合戦 古書に鯨波地を動かし馬風天を掩ふとあり武勝敗色濃厚なるを武光愠り交戦数刻之を挫き(首二千三百級を得)探題等以下豊前に退く五日将軍宮御陣を宰府に移す
長者原古戦場の標は圑地造成により破壈放置されてゐたので長者原の有志相謀りその由来を永久に伝えるため此の地に再建したるものなり
昭和四十四年五月 長者原 昭和會
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「復旧の碑」より
豫め・・・あらかじめ 黎明・・・明け方 鯨波・・・兵士の鬨の声 馬風天を掩ふ・・・馬の動きで起こった風が空を覆う 武勝敗色濃厚なる・・・敗戦が濃くなると 愠り・・・怒り 挫き・・・くじき 破壈・・・はらん・壊され忘れ去られる事
【維新之志士 早川勇顕彰碑】(宗像市吉留)
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 | 早川勇銅像 |
【明治維新の志士 早川 勇】
早川勇は幕末から明治へ 高杉晋作、西郷隆盛、中岡慎太郎、平野国臣、野村望東尼、等と結び歴史を動かした志士の一人。
天保三年七月二十三日(1832年)遠賀郡虫生津に生まれ、安政二年九月(1855年)二十三歳の時 宗像郡吉留の医師早川元端の養子となる。
医業を修めながら多くの志士と交流し、坂本龍馬による薩長連合より早く、薩摩・長州・筑前の三藩連合を企て馬関(現在の下関)にて高杉・西郷の会談を実現し基礎を作った。
又、征長軍解体、三条実美ら五卿の大宰府への西遷を実現するために東奔西走し、維新時代の先頭に立って活躍しました。
晩年は明治新政府、三条実美らの招請で東京に居を移し、上京してくる郷土の青年の育成に努めたという。
横には早川勇翁の歌碑があり、又 台座の字は元内閣総理大臣 佐藤栄作書によるものである。
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「早川勇顕彰碑」の案内板より
【平信盛公墓】(宗像市)
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 | 平信盛公墓の碑 |
【平信盛公墓】
宗像市 文化財第一号
史蹟 (昭和四十九年三月三十日)
名称 平信盛笠塔婆 一基
説明
この墓碑は平信盛(清盛の孫 父は中納言知盛)月絵姫(大納言光盛の息女)御夫妻のもので人皇第八十一代安徳天皇が寿永四年三月平氏一門の壇の浦敗戦と共に二位の尼時子(清盛の妻)に懐かれて入水崩御せられ平家一門もこの戦いで殆ど戦死や自殺して海底に沈み滅亡したが信盛は他日の再挙を期して深山幽谷に身をかくし源氏の目を避けんとして英彦山から宗像一の宮(辺津宮)孔大寺権現の社にと供人八十五騎を従えて落ちのびた。
その後たまたま鶴山(釣山)に金鉱を見出しこれの採掘に従事するとともに井上五郎大夫と改名し安住の地と定めた その後更に大賀と改姓信盛より八代目大賀惣右ヱ門の世には極めて繁栄して千余戸を数える鉱山町となり禁裏より永野の姓を名のるよう指示があり今日に及んでいる この墓所ははじめ石塔山にあったが洪水のため埋没したので明治二十一年十一月永野家一統が協議してコウモリ塚に移し墓石も永年の風雨に表面の刻字も磨滅したので新らしくその節刻名し天蓋石と台石のみ八百余年の寂影をとどめている。
昭和五十一年一月二十日
宗像市教育委員会
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平信盛公墓の案内板より
墓は白塀の奥にあり、案内板には上記の通り記載されています。
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