【馬ヶ岳城跡】(行橋市大谷)



馬ヶ岳

●馬ヶ岳城の歴史●
 馬ヶ岳城は、行橋市とみやこ町の境に聳える標高216mの馬ヶ岳と、その山麓に築かれた中世の山城です。室町時代から戦国時代まで大内氏や毛利氏や大友氏などさまざまな勢力がこの城をめぐって合戦を繰り返しました。
九州平定の際に豊臣秀吉が宿泊した城であり、黒田官兵衛(孝高・如水)の九州最初の居城としても知られています。

今も残る山城のあと


 馬ヶ岳には、土塁・堀切(ほりきり)・畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)などの山城の遺構が今も残っています。 西側の峰を本丸跡、東側の峰をニノ丸跡と呼んでおり、ニノ丸から北に下る尾根には、約700mにわたる土塁や、50本以上の畝状竪堀群が残ります。馬ヶ岳城は土塁などの防御施設が山麓部にもあり、中世から近世への城郭の変遷を考える上でも貴重な史跡です。


行橋教育委員会

馬ヶ岳登山駐車場にある「馬ヶ岳城へのルート」案内板より

写真の台形型の大きな山頂部が本丸の部分。左の小さな山頂部が二の丸のあったところになります。




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【御所ヶ谷神籠石】(行橋市津積)



周辺の史跡

御所ヶ谷神籠石と周辺の史跡

 御所ヶ谷神龍石(ごしょがだにこうごいし)は7世紀に国外からの侵攻に備えて築かれた古代の山城跡で、面積 35万平方メートル、全周3kmにおよぶ大規模な遺跡です。切石の列石を連ね、その上に土を積んだ城壁が山を巡っています。列石の多くは埋もれていますが、東門の南側などで見ることができます。城内には建物の礎石や貯水池と推定される遺構もあります。
 この城には7つの城門があり中でも排水口を備えた中門の石塁は壮観で、1300年前のすぐれた土木技術を目の当たりにすることができます。
 また神籠石のなかには景行天皇を祀った神社があり、また周辺には私塾水哉園(すいさいえん)を開いた村上仏山(ぶつざん)ゆかりの蔵詩巌(ぞうしがん)、仏山の師、定村直栄(なおしげ)のいた大島八幡神社や定村家の墓地などの史跡もあります。

現地にある行橋市教育委員会の案内板より
画像は現地案内板に掲載される地域周辺の写真になります。拡大写真はこちらです!!








【豊前国府政庁跡】(京都郡みやこ町)



豊前国府政庁跡

豊前国府政庁跡

 豊前国府は、ここ福岡県京都郡みやこ町国作(こくさく)・ 惣社(そうしゃ)地区に広がる奈良~平安時代の地方都市で、 当時は豊前国の政治・経済の中心地として繁栄していました。 また、当国府の政庁の南方約350mには古代の官道が北西-南東方向に走り、 さらにその南方約450mには奈良時代に創建された豊前国分寺があります。 政庁の南西に隣接する惣社八幡神社は、 平安時代に国司が参拝した豊前国の総社です。

 豊前国府の中心部の政庁には8世紀から12世紀ごろまで 官衙(役所)の主要建物が建設されていましたが、 ここでは発掘調査で確認された第Ⅲ期(9世紀後葉~10世紀後葉) 前半の中門跡・東脇殿跡・築地塀跡などを中心に復元しています。 この一帯は後世の開墾などで地形が変化していますが、 政庁の大きさは東西の幅約79.2m、南北の長さ約105.0mでした。

 発掘では須恵器・土師器などの日常の食器以外にも、緑釉(りょくゆう) 陶器・灰釉(はいゆう)陶器などの国産高級陶器、青磁・白磁など中国から の輸入磁器、各種の硯、墨書土器、木簡、瓦などが出土しています。

「豊前国府政庁跡」の案内板より




豊前国府政庁中門跡

中門跡

 平城宮に代表される古代の役所は、南側の入口に門が建てられていました。  豊前国府の政庁の場合も同様で、この場所から東西の長さ6.8m、 南北の幅3.4mの堀立柱建物跡が見つかり「八脚門」という形式の門(中門とよばれるも の)があったものとみられています。 建物は柱の直径が30cm前後で、柱穴は正方形で1辺が1mもあり、 豊前国府の建物の中では比較的大きなものでした。  またこの中門の南側の築地塀付近には南門も設けられていたものと考えられています。 ここでは土盛りの基壇の上に築かれていたとみられる中門の柱下部(基礎部分)を復元しています。

「豊前国府政庁中門跡」の案内板より




築地塀(復元)

築地塀(復元)

豊前国府の第Ⅲ期(9世紀後葉~10世紀後葉)の政庁は、10世紀中ごろに一度建てかえられています。 第Ⅲ期の前半代の政庁は築地塀によって南北に長い長方形に区画されていたことが発掘調査で確認されています。 第Ⅲ期後半代では政庁内部の建物は明らかになっていませんが、 この場所で同時期の築地塀の雨落ち溝が発見されています。 この場所は後世の開墾等による地形の変化が少なく、周囲にくらべ1~1.5mほど小高く残されていました。 この高さが平安時代の国府政庁が建築されていた、地表の高さに近いものと想像されます。 発見された雨落ち溝は、4.1mの間隔をおいてほぽ南北方向に並行して走る二条の大構で、 西側の溝は幅1.1~1.9m・深さ0.35m、東側の溝は幅1.3m前後・深さ0.25mでした。 長さはともに6m程度が残っていて、溝の断面は逆台形でした。 溝の内部からは土師器(はじき)の椀・杯(つき)・皿や緑釉陶器(りょくゆうとうき)が出土しています。
古代の役所や寺院では、回廊や築地塀・板塀・柵列などでその敷地を区画しています。 しかし実際に発掘調査で確認された築地塀跡を復元した例はまだ少なく、平城宮跡(奈良県)や讃岐国分寺(香川県)などで部分的に当時の姿が復元されています。
豊前国府跡でも今回第Ⅲ期後半代の雨落ち溝の位置(左隣の築地塀)に築地塀を復元しました。 この築地塀の復元方法は塀本体を三和土(さんわど)の手搗(てつ)き版築(はんちく)でつくり、上部は本瓦葺(ほんかわらぶき)で仕上げています。 大きさは基底部の幅が1.38m、高さが3.78mで、長さ2.4m分を復元しています。

「豊前国府政庁築地塀(復元)」の案内板より




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【船迫窯跡】(築上郡築上町船迫)



船迫窯跡

国指定史跡 船迫窯跡
(平成11年1月28日指定)

平成7年、船迫地区の農業基盤整備に伴う発掘調査で、水田下より大規模な工房建物跡が発見されました。これを契機に窯跡の確認調査を実施したところ、9基の窯跡が保存状態も 良く確認されたことから、平成11年に国の史跡に指定されました。
船迫窯跡では約1300年前の古墳時代から焼き物の生産が始まりました。ここから西側の茶臼山東窯跡群では、6世紀後半に須恵器(水甕やお碗など灰色の硬い焼き物)を焼き、また7世紀中頃になると須恵器に加え、瓦の生産も始まりました。さらに奈良時代には、ここ堂がえり地区で豊前国分寺の屋根瓦をつくるため、巨大な建物を2棟建て、粘土から瓦をつくり、乾燥させ、堂がへり1号・2号窯で焼きました。
船迫窯跡は須恵器生産から瓦生産に至る変遷が分かり、また工房と窯跡が一体となった全国でも数少ない貴重な遺跡です。ここ船迫窯跡公園には奈良時代の復元工房建物や、山中には 発掘調査された窯跡をそのまま見学できる窯跡展示建物、出土遺物の展示や陶芸体験ができる体験学習館があります。

船迫窯跡にある案内板より




瓦工房建物

瓦を製作した工房建物(奈良時代)

 幅11.5m、長さ30mもある巨大建物が2棟並んで発見されました。しかし柱穴は10~15㎝と小さく、柱並びも悪いことから、豊前国分寺で使用する大量の瓦をここで製作し、乾燥、窯焼きまで保管するため、短期間に使用された、壁もない作業小屋的な建物と考えられます。
 このような大型瓦工房建物跡は平城宮の瓦を生産した市坂瓦窯工房跡(上人ヶ平遺跡:京都府木津川市)に次いで2例目で大変貴重です。

船迫窯跡公園にある案内板より




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【おこしかけ】(豊前市四郎丸)


「おこしかけ」の由来

JR日豊線豊前松江駅の東南方に細長い台地があり、そこは「おこしかけ」の名で呼ばれている。
 往古、神功皇后(じんぐうこうごう)が豊前路巡幸の折に、その地にあった石に腰を下ろしてしばしの休息をとったので、それ以来「おこしかけ」の地名がついたのだと言われる。眼下に豊前海を一望できる風光明媚な場所である。
 神功皇后について語り伝えられるところによれば、四世紀の終わり頃、熊襲(くまそ)との戦いのさなかに夫の仲哀天皇が亡くなり、皇后は応神天皇を身ごもったまま、武内宿禰(たけのうちのすくね)と計って朝鮮半島は新羅(しらぎ)へ出兵したという。また帰国後は、応神天皇即位までの六十九年間摂政をつとめたとされる。
 神功皇后は宇佐神宮の祭神である。大きな古墳の上に建つ宇佐神宮は三つの神殿が横に並んで本殿を形成しているが、神功皇后はその第三御殿に祀る(まつ)られている。
 奈良時代以降、朝廷の宇佐八幡に対する崇敬はすこぶる篤(あつ)く、天皇の即位や国家の変事が生じた際には、奉弊(ほうへい)あるいは神意をうかがうために勅使(ちょくし)がしばしぼ宇佐へ派遣された。そして、松江の海岸線から四郎丸、田渕をへて宇佐へと向かう道筋は、その宇佐使が通る勅使街道にあたった。それゆえ、豊前の地には、大富神社の「勅使井」をはじめとして宇佐八幡にまつわる様々な歴史か刻まれ、「拝みの松」の和気清麻呂伝説や「おこしかけ」の神功皇后伝説など多くの伝説が今に語り継がれることになったのである。

豊前市教育委員会

国道10号線沿いの「道の駅おこしかけ」に置かれている案内板より




















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