余談 【「御堂関白記」が世界記憶遺産に登録】 6月18日に藤原道長の「御堂関白記」がユネスコの「世界の記憶」に登録されました。 日本の古典が世界に評価されるのは非常に喜ばしい事ですが、この人は結構傲慢な人間性の持ち主だったようです。 平安時代中期に兄・藤原道隆が大酒が原因で死去すると、その権力を継承し藤原氏の全盛期を築きます。 そしてこの時期に道長は朝廷で思い通りならない事はなかった様で この世をばわが世とぞ思ふ もち月の欠けたることのなしと思へば 「この世は私の世ように思える。満月のように何も欠けるものがない。」 と「北斗の拳」のラオウでさえもはばかる様なことを詠っています。 ちなみに当ページの「刀伊の海賊を撃退した男」で紹介した藤原隆家はこの道長の甥にあたり、 父・道隆の権力を継承したこの叔父との確執に嫌気が差し、自ら大宰府へ赴任したといわれています。
6月18日に藤原道長の「御堂関白記」がユネスコの「世界の記憶」に登録されました。 日本の古典が世界に評価されるのは非常に喜ばしい事ですが、この人は結構傲慢な人間性の持ち主だったようです。 平安時代中期に兄・藤原道隆が大酒が原因で死去すると、その権力を継承し藤原氏の全盛期を築きます。 そしてこの時期に道長は朝廷で思い通りならない事はなかった様で この世をばわが世とぞ思ふ もち月の欠けたることのなしと思へば 「この世は私の世ように思える。満月のように何も欠けるものがない。」 と「北斗の拳」のラオウでさえもはばかる様なことを詠っています。 ちなみに当ページの「刀伊の海賊を撃退した男」で紹介した藤原隆家はこの道長の甥にあたり、 父・道隆の権力を継承したこの叔父との確執に嫌気が差し、自ら大宰府へ赴任したといわれています。
【毛利勝永(もうりかつなが)】(1578年~1915年)毛利勝永は秀吉配下の森吉成(のち毛利勝信)の嫡男で、九州征伐の功により、田川企救郡を賜った父に従い小倉城に入ります。そして父・勝信は、約13年間この地を治めますが、その間に近隣の大勢力・毛利氏との繋がりで、姓を毛利に改めます。しかし毛利氏との間に太い血縁はなかったようです。 関ヶ原の戦いでは西軍に属し、伏見城を攻め落しますが、最終的に西軍は敗北します。この敗戦で毛利勝信、勝永親子は小倉の.....[全文を表示]
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