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福岡人物伝
 【シーボルト(しーぼると)

1823年、長崎に来航した翌年に鳴滝塾を開き、患者の診察治療活動や集まった塾生に西洋医学、科学を教授します。 これにより鳴滝塾からは伊東玄朴、高野長英、二宮敬作、伊藤圭介の他に幾多の人材が輩出されます。 またの使命とする日本の動植物の情報を収集していますが、この時、貝原益軒の「大和本草」などの著作に触れ絶賛したといわれます。 1826年の江戸参府の際は、長崎街道を通り、 原田宿(現福岡県筑紫野市・大蔵春実系原田氏派生の地)では目の前を通り川に飛び込むカワウソと遭遇し、 山家宿(同じく筑紫野市)では黒田藩の別荘に宿泊し、めずらしい鉱物や化石を鑑賞したと日記に記されているそうです。 また1828年には福岡藩主・黒田斉清の訪問を受け「本草学」について質問攻めに合っています。 斉清はこの時の問答を部下に命じ「下問雑戴(かもんざっさい)」という書物で後世に残しています。 シーボルト自身は筑前に長逗留する事はありませんでしたが、この地には強い印象を感じていたのかもしれません。

-参考・引用「ちくしの散歩」(筑紫野市のページ)-




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スポットライト人物伝


【筑紫広門(ちくしひろかど)】
(1556年~1623年)


筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と共に肥前東部に追われ養父(佐賀県鳥栖市北部)辺りに居を移したのかもしれません。後に筑紫氏は大内氏に従い、大内氏の滅亡後は毛利氏に同盟し豊後の大友氏と戦います。

筑紫広門は父・惟門が大友氏に討たれたため筑紫氏を.....[全文を表示]




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