福岡人物伝 【少弐貞経(しょうにさだつね)】「元弘の乱」では菊池武時の決起要請の使者を切り捨て、翌日には北条英時の鎮西軍と共に鎮西探題に討入った菊池武時を敗死させます。 そして、その2ヵ月後には大友貞宗と共に北条英時を攻め滅ぼし最後の北条氏の勢力を殲滅します。 しかし、3年後に大宰府へ攻め込んで来た菊池武敏(菊池武時の九男)に有智山城を攻められ自害することになります。
「元弘の乱」では菊池武時の決起要請の使者を切り捨て、翌日には北条英時の鎮西軍と共に鎮西探題に討入った菊池武時を敗死させます。 そして、その2ヵ月後には大友貞宗と共に北条英時を攻め滅ぼし最後の北条氏の勢力を殲滅します。 しかし、3年後に大宰府へ攻め込んで来た菊池武敏(菊池武時の九男)に有智山城を攻められ自害することになります。
【筑紫広門(ちくしひろかど)】(1556年~1623年)筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と共に肥前東部に追われ養父(佐賀県鳥栖市北部)辺りに居を移したのかもしれません。後に筑紫氏は大内氏に従い、大内氏の滅亡後は毛利氏に同盟し豊後の大友氏と戦います。 筑紫広門は父・惟門が大友氏に討たれたため筑紫氏を.....[全文を表示]
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